鳥羽上皇からの寵愛を受け歴史を動かした平安時代の女性・藤原得子とは? (2/2ページ)
鳥羽上皇は当時、皇后(藤原璋子)がいましたが、藤原得子は鳥羽上皇の寵愛を受け、保延元年(1135年)に叡子内親王、保延3年(1137年)暲子内親王、保延5年(1139年)皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を出産します。
当時の天皇・崇徳天皇には子どもがいなかったため、体仁親王が皇太子となり、得子は大出世。藤原得子は藤原璋子を上回る権力を持つことになりました。
「保元の乱」のきっかけを作る残念ながら近衛天皇は17歳という若さで亡くなってしまいます。当時彼に子どもがおらず、本来であれば崇徳上皇の第一皇子が即位するはずですが、それをしりぞけ、後白河天皇を即位させます。
これにより、鳥羽上皇・藤原得子・藤原忠通・後白河天皇のグループと、崇徳上皇・藤原忠実・頼長(鳥羽上皇により失脚させられていた)のグループの対立が生まれます。
鳥羽上皇の崩御を受け、崇徳上皇側が挙兵。対する後白河天皇の兵を集め、崇徳天皇らを破ります。これが保元の乱です。
後白河天皇の即位には得子らの思惑があったとされていますから、保元の乱のきっかけを作ったと言っても過言ではないでしょう。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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