関ヶ原の戦い後、敗れた西軍にもかかわらず領地の加増を受けた2人の大名は誰?

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関ヶ原の戦い後、敗れた西軍にもかかわらず領地の加増を受けた2人の大名は誰?

関ヶ原の戦いでは、西軍に与した大名たちは戦いに加わったか否かの関係なしに改易や減封といった何かしらの処罰を受けました。

しかし、中には西軍にもかかわらず、加増された大名たちが何人かいました。

彼らは関ヶ原の戦いの最中にどのような働きを見せたのでしょうか。今回は加増を受けた2人の西軍の大名がどんな働きを見せたのか紹介します。

豊臣と徳川のパイプ役となった片桐且元

片桐且元/Wikipediaより

最初に紹介する人物は、片桐且元(かたぎり-かつもと)です。

且元は浅井長政の家臣でしたが、浅井氏滅亡の後に豊臣秀吉に仕えます。その後は秀吉の家臣として、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで一番槍の功績により「賤ヶ岳の七本槍」に数えられるほどの活躍をしました。

また、大坂の陣の発端となった方広寺を建築した人物としても知られています。

慶長3年(1598)には豊臣秀頼の補佐役の1人に選ばれ、直接意見を言える重要な立場を与えられました。それほど且元が豊臣政権に必要な存在だったことがうかがえます。

豊臣秀頼/Wikipediaより

慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いでは西軍に与し、大津城の戦いで家臣を派遣しました。西軍敗北後は、長女を人質として徳川家康に差し出し、豊臣と徳川両家の調整に奔走。

その功績により、それまで有していた1万石から1万8000石の加増を受け、2万8000石を有するまでに至りました。

また、同年には且元と同じく秀頼の補佐役の1人である小出秀政と共に豊臣家の家老に抜擢されます。

以後、且元は江戸幕府の政治を秀頼の代わりに協力と承認する立場となり、大坂総奉行と呼ばれました。

慶長9年(1604)に秀政が亡くなると唯一の家老となり、豊臣家の外交と財政を一手に担いました。

そのため、淀君から「秀頼の親代わりになってほしい」との手紙が残されているくらい信頼されていたことがわかります。

池田輝政に救われた山崎家盛

家盛の義兄・池田輝政/Wikipediaより

次に紹介する人物は、山崎家盛(やまざき-いえもり)です。

家盛の父・山崎片家は、六角や織田、明智と転々とした人物で、天正10年(1582)の山﨑の戦いで明智光秀が討たれると、秀吉に降伏。

その後摂津国三田城主(現在の兵庫県三田市)として2万3000石を与えられています。

天正19年(1591)に片家が亡くなると、嫡男の家盛が三田城主として家督を継承しました。

石田三成/Wikipediaより

関ヶ原の戦いでは、石田三成の挙兵を下野国小山(現在の栃木県小山市)にいた家康に報告するも、三成からの催促を受けて西軍に加勢。

細川幽斎が守る田辺城攻めに赴きますが、東軍に内通しているために戦うことなく帰路につきました。

戦後は西軍に与したことで改易処分を下されます。しかし、義理の兄である池田輝政(家盛の正室は池田恒興の娘)の尽力や三成挙兵の報告をした功績から所領安堵となりました

そして、因幡国若桜城(現在の鳥取県若桜町)への転封により、7000石の加増を受けます。その結果、家盛は3万石を有する大名となりました。

最後に

西軍に与したにも関わらず、加増を受けた片桐且元と山﨑家盛の2人。且元は豊臣とのパイプ役を期待されて、家盛は輝政の助力によってと異なる事情で加増を受けました。

家盛は棚から牡丹餅のような印象を受けますが、仕方なく西軍に与したことを考慮されていたと思われます。

且元にいたっては、最後まで豊臣と徳川両家の関係を調整していたので、処分するには惜しいと思ったのかもしれません。

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