全身から血を噴いて崩御…幕末期の孝明天皇の突然死で囁かれた「岩倉具視犯人説」を検証【後編】 (3/4ページ)
当時の岩倉は、朝廷の中でも屈指の尊攘倒幕論者でした。彼は幕府を倒して、王政復古による新政権の樹立をすべきだと主張していたのです。
これは【前編】で説明した通り公武合体派だった孝明天皇とは真っ向から対立する主張です。岩倉の主張を通すには、「徳川幕府は絶対に必要だ」とする孝明天皇は邪魔な存在でした。
当時の情勢から言っても、孝明天皇が存在する限り武力倒幕の見込みはなかったと言ってもよく、そこで公家であり天皇に近づきやすい立場にあった岩倉が毒を盛ったのではないかということです。
実際、孝明天皇が亡くなっていなければ、徳川政権が続いていた可能性は非常に高いです。その後の岩倉が明治天皇を即位させ、討幕派が有利になる状況を作り上げたのはご承知の通りです。
「無罪説」による反証も可能また動機についても、彼は孝明天皇から情報漏洩を疑われており、辞官し出家するよう強要されていました。よって岩倉は、孝明天皇を暗殺するだけの政治的な動機もあり、また私怨もあったと言えそうです。
とはいえ、物的証拠は一切ありません。
また状況証拠も薄弱で、彼が現実的に当時どのように毒を盛ったのかは不明です。一応、当時の噂で「天皇には筆を舐める癖があったので、穂先に岩倉が毒を塗った筆を献上したのだろう」とは言われていたようですが。
動機についても、本当に岩倉が孝明天皇を恨んでいたという証拠はありません。
むしろ存在するのは、岩倉は孝明天皇の暗殺犯「ではない」という状況証拠の方です。
孝明天皇が亡くなる七カ月前の1866年5月に、岩倉は孝明天皇へ「全国合同策密奏書」を提出しました。