最後のメンバー犬塚弘さん逝く!スター秘話「ハナ肇とクレージーキャッツ」追悼…昭和の喜劇人「泣き笑い」黄金伝説
10月26日、『ハナ肇とクレージーキャッツ』(以下、クレージー)の最後の一人、ハナ肇、植木等、谷啓に続く“第4の男”と呼ばれた犬塚弘さんが94歳で旅立った。
喜劇史に詳しい江戸川大学教授の西条昇氏が語る。
「犬塚さんは、大きなウッドベースを長身と長い手足を生かして、ダイナミックなアクションを交えて演奏する姿が印象的でした」
喜劇人でもあった犬塚さんの原点は音楽。1955年にクレージーの前身バンド『キューバン・キャッツ』に参加している。
「ハナ肇が結成したそのバンドに、トロンボーンの谷啓、ピアノの石橋エータローが加わることでクレージーキャッツに進化。さらにギターの植木等、サックスの安田伸が合流し、国民的人気者に成長していきました」(音楽ライター)
ところが、60年に石橋が病に倒れてしまう。
「代役を務めたのが桜井センリでした。その後、石橋が復帰する際、ハナは“せっかく仲間になったのだから”と桜井の残留を決めた。結果、ぜいたくな“ツインピアノ”がバンドの名物になったんです」(前同)
西条氏は、こう振り返る。
「ハナさんは仲間思いのガキ大将でした。また、バンドマンなのでアンサンブルを重視していました。ドラマーとして後ろから支えながら、メンバーを、いかに引き立てられるかを考え、その中で自分の個性も出そうとしていたんです」
■後のSMAPや嵐につながる
各メンバーのマルチなソロ活動も斬新だった。
「植木さんは東宝で、ハナさんは松竹で、谷さんは東映で、“第4の男”犬塚さんは大映で主演映画を撮っている。各自が異なる場で活動し、集まるときは集まる。
音楽、笑い、司会、芝居のすべてをこなす。このスタイルは後のSMAPや嵐につながります」(前同)
■植木等に男泣き
クレージーのこうした戦略は、やがて感動の舞台を演出することになる。
「66年に『運が良けりゃ』でブルーリボン賞の主演男優賞を得たハナ肇へのプレゼンターは、前年の大衆賞を受賞していた植木等。このとき、ハナは壇上で、人目もはばからず男泣きしています」(芸能界関係者)
■舞台裏では真面目
メンバーは、舞台裏では真面目な人物が多かった。
「皆さんが醜聞とは無縁。犬塚さんや植木さん、谷さんは酒も飲まなかった。
実父が僧侶だった植木さんは映画『ニッポン無責任時代』で、自ら演じる役が香典泥棒をやらかす設定に耐えられず、監督に脚本変更を談判したとか」(前同)
■素顔もコミカルだった谷啓
一方で、素顔もコミカルだったのが谷啓だ。
「たとえば、64年の東京五輪開催時には、選手に憧れるあまり、開会式の行進時の選手と同じ衣装を着て街を歩いていたと聞きます」(同)
絶妙なバランスを保った7人だったが、石橋が70年末に病気を理由に脱退。
「回復後、石橋さんは“単独で芸能界復帰すればクレージーに不満があったと誤解される”と考え、料理研究家に転じています」(同)
メンバーの絆は深かった。今はあの世で、久々に全員そろってのセッションに興じているはずだ。(文中一部=敬称略)