その腕前に家康も関心!徳川家で弓術師範を務めた竹内信次の活躍ぶりやいかに?【どうする家康 外伝】

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その腕前に家康も関心!徳川家で弓術師範を務めた竹内信次の活躍ぶりやいかに?【どうする家康 外伝】

昔から武士を弓馬(ゆんば/きゅうば)と呼ぶように、武士にとって弓術と馬術は必須スキルでした。

南蛮から火縄銃(鉄砲)がもたらされた戦国時代においても、弓矢は飛び道具の主力として相当の威力を発揮します。

今回は人質から天下人に上り詰めた徳川家康の家臣・竹内信次を紹介。その腕前は、どれほどだったのでしょうか。

家康がつけたあだ名は「発知八蔵」

若くして徳川家の弓術師範となった竹内信次(イメージ)

竹内信次は竹内信重の子として誕生しました。生年について、詳しいことは分かりません。

通称は五左衛門。19歳の時に家康の小姓として仕えました。

家康の寵愛を受けたのか、のち御徒頭(おかちがしら。歩兵隊長)に抜擢されます。

幼少時から弓を得意としていたらしく、その腕前に感心した家康は、信次に八蔵という名を授けます。

「そなたはまさに発知八蔵じゃ!」

発知(はっち)とは矢が的に突き立った時の擬音「はっし(発止)」の訛り。よく軍記物語などで「はっしと射止める」なんて言いますね。

矢を射るたび、放つたびに的がはっち、はっちと鳴るから八蔵……どうやら家康は親父ギャグが好きだったようです。

「よし、今日からは八蔵を弓術師範とする。皆の者、よう稽古してもらえ」

「「「……御意」」」

小牧・長久手の戦いで活躍

小牧・長久手の合戦で敵を射止める竹内信次ら(イメージ)

かくして徳川家の弓術師範となった信次。しかし家臣たちは面白くありません。

「何が八蔵じゃ。殿の仰せだから大人しく従うが……」

「あの生意気な小童、実戦ではいかほどかのう!」

信次の初陣は天正12年(1584年)、後世に伝わる小牧・長久手の戦いです。

ここで信次は得意の弓術を駆使して敵を次々に射止め、名だたる首級を二つも獲たのでした。

この時、信次は戦利品として唐頭(からのかしら。ヤクの毛で飾られた兜。高級品)と、村正の脇差を手に入れます。

自分のものにしてもよかったのでしょうが、信次はこれらを仲間に分配。唐頭は加々爪次郎右衛門に、脇差は内藤家長に与えたということです。

エピローグ

●信次

八蔵 五左衛門 母は某氏。

東照宮につかへたてまつり、御小姓を勤む。時に十九歳 そののち御徒の頭に転ず。信次少年のとき、射芸をこのみ、よく的に中つ。ゆゑに東照宮たはぶれに發知八蔵とめされ、仰によりて麾下の諸士信次に射芸を学ぶもの数多なり。天正十二年長久手の役に首二級をうち取、唐頭付たる甲及び村正の脇指を分捕す。その後唐頭は加々爪次郎右衛門某にあたへ、脇指は内藤弥次右衛門家長にあたふ。そののち関原御陣にしたがひたてまつり、慶長六年より西城の御留守居番をつとめ、のち奥方番に転じ、寛永十年致仕し、某年死す。年八十四。

※『寛政重脩諸家譜』巻第九百六十七 藤原氏(支流)竹内

その後、信次は関ヶ原の合戦(慶長5・1600年)に従軍。慶長6年(1601年)からは留守居番として前線に出ることはなくなったようです。

のち奥方番(いわゆる大奥の管理職員)となり、寛永10年(1633年)に引退。没年は不明ですが、84歳という長寿で世を去ったのでした。

竹内信次の生年を推測

ところで、竹内信次は生没年ともに不祥とされています。

仮に引退の翌年(寛永11・1634年)あたりに亡くなったとすると、生まれた年は天文20年(1551年)。

その場合、19歳で家康に仕えたのが永禄12年(1569年)。そこから小牧・長久手の戦い(天正12・1584年)に初陣だと34歳。いくら何でも遅すぎです。

そうなると、生まれた年は10~15年ほど繰り下がった永禄4年(1561年)~永禄9年(1566年)くらいと考えるのが自然でしょうか。

今後、確かな究明がまたれるところです。

終わりに

以上、徳川家康に仕えた竹内信次のエピソードを紹介してきました。

徳川家臣団には他にも個性豊かな武将がたくさんいたので、また改めて紹介したいと思います。

※参考文献:

『寛政重脩諸家譜 第6輯』国立国会図書館デジタルコレクション

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