置屋の養女から日本初の女優に!政治家や有名人も魅了した”マダム貞奴”こと川上貞奴とは?

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置屋の養女から日本初の女優に!政治家や有名人も魅了した”マダム貞奴”こと川上貞奴とは?

テレビドラマや映画に欠かせない存在なのが「女優」。華やかな世界で活躍する女性たちは今ではたくさんいますが、「日本の近代女優第1号」と呼ばれた女性をご存じでしょうか?

彼女の名前は川上貞奴(かわかみ・さだやっこ)。一般の人々だけでなく、誰もがその名を知る政治家や有名人たちも魅了しました。

今回は、そんな彼女の波乱万丈な人生に迫ってみたいと思います。

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両替商の家に生まれ、7歳で芸者置屋の養女に

1871年、日本橋の両替商の家に生まれた小山貞(本名)。小山家の家業が傾いたことから、7歳で日本橋芳町(よしちょう:花街として栄えた。現在の中央区日本橋人形町周辺)の芸者置屋・浜田屋の亀吉の養女となります。

亀吉は貞に才能を感じ、芸者としての教育を施していきます。気の強さもあり、彼女は芸を身につけ、評判の芸者となりました。特に日本舞踊などの芸能に優れていた彼女は、伊藤博文らからもご贔屓にされます。売れっ子芸者となり「奴」という伝統ある名前も得ています。

エキゾチックな彼女は欧米でも大人気に

貞奴は23歳のときに自由民権運動の活動家で書生芝居で有名だった川上音二郎と結婚。川上一座が行ったアメリカ興業の際に、彼女は初めて舞台に立ちました。アメリカ各地で話題になり、またパリ万博でも公演を行っています。

ピカソやロダン、ドビュッシーといった芸術家からも絶賛され、なんとフランス政府から勲章を授与されています。そんな彼女は「マダム貞奴」と呼ばれていたとか。

後進の育成に力を注ぐ

帰国後は、音二郎とともに女優の育成に力を注ぐため、帝国女優養成所を設立します。音二郎の死後、大々的な引退興行を行い、舞台から引退します。

その後、福沢諭吉の娘婿である福澤桃介と再婚。実は彼は貞奴の初恋の相手だったのですが、若い当時は諸事情で分かれていました。そんな桃介と貞奴は静かに仲良く添い遂げたといいます。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

画像出典: Wikipedia より

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