「どうする家康」最後はみんなで海老すくい…最終回放送「神の君へ」振り返り

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「どうする家康」最後はみんなで海老すくい…最終回放送「神の君へ」振り返り

豊臣秀頼(作間龍斗)と茶々(北川景子)を滅ぼし、戦なき世を実現した「我らが神の君」徳川家康(松本潤)。

……あくる元和元年の春のころ。又不義のふるまひあらはれしかば。再び御親征あるべしとて。四月十八日二條の城につかせ給へば。  将軍にも廿一日伏見の城にいらせ給ひ。五月五日両御旗を難波にすゝめられ。六月七日の合戦に大坂の宗徒のやから悉く討とられ。秀頼母子も八日の朝自害し。城おちいりしかば。京都に御凱旋あり。……

※『東照宮御実紀』巻十 慶長十年(二十年の誤り)「大坂夏陣」

大坂の陣(画像:Wikipedia)

その偉大な功績を後世に伝えるため、南光坊天海(小栗旬)が号令のもと、歴史が大きく作りかえられていきました。

「源頼朝だって、実際どんなヤツだったか分かりゃしねえ」

だから家康の歴史だって、作りかえて構わない。何なら言ったモン勝ちなのだから……とは言え「実際見た人が今生きている訳じゃないから、歴史なんて何をどう改竄しても構わない」という態度はいかがなものかと思います。

しかし「神の君」となった家康は、畏敬されるあまり誰も近づかない孤独な存在となってしまいました。

望んでしたことは一つもなく、やって来たのは人殺しばかり……。これで人生よかったのか自問していると、押し入れ?から出てきた亡き瀬名(有村架純)と松平信康(細田佳央太)。

これは死に際の夢でしょうか、竹千代(徳川家光)が鎧を着て戦わなくてすむ世の中を実現したことを褒められ、また時空がどこかへ飛びます。

かねてよりちょいちょい言及されていた「鯉のネタ」の事実が明かされ、みんな仲良く海老すくいで大団円。そして彼らの背後、かなた向こうに大都市・東京の蜃気楼が浮かんでいました。

という訳で、1年間お疲れ様です。何やかんやであっという間でしたね。

NHK大河ドラマ「どうする家康」もこれで最終回。ロスになっている方もいるかも知れませんが「神の君へ」気になるトピックを振り返って行きましょう!

一、本当は秀頼を助けたかった家康。しかし……

家康がこよなく可愛がった千姫。もしかしたら、秀頼は助かっていたかも?(画像:Wikipedia)

劇中では千姫(原菜乃華)の助命嘆願を拒絶した徳川秀忠(森崎ウィン)。

これまであまりに情けなかった彼の非情な決断は、果たして史実だったのでしょうか。

江戸幕府の公式記録『徳川実紀』を読んでみると、確かに秀忠が決断していたようです。

……落城後秀頼母子は芦田曲輪に籠り。姫君御出城ありて。母子助命の事を。本多佐渡守正信もてこひたてまつられしに。御姫が願とあらばそれにまかすべし。秀頼母子をたすけ置たればとて。なでう事かあらむ。汝岡山へゆき  将軍にも申てみ候へとの仰にて。……

※『東照宮御実紀附録』巻十五「家康殺秀頼」

家康は可愛い孫娘の頼みとあって「姫の願いならば、聞いてやらんわけにも行かぬ」と二つ返事。

さっそく本多正信(松山ケンイチ)を使者に立て、秀忠に秀頼母子を助命するよう伝えました。が……。

……正信岡山に参りそのよし申上れば。  将軍家は御気色以の外にて。何のいはれざる事をいはずとも。なぜ秀頼と一所にはてざるぞと宣へば。正信うけたまはり。ともかうも  大御所の思召に任せらるべしと申て。姫君の方へも参りかくと申し。扨八日の朝にいたり、  両御所御参会ありて志ばし御密談あり。……

※『東照宮御実紀附録』巻十五「家康殺秀頼」

「何だと、姫が助命嘆願に参ったと!?」

正信の報せを聞いて、秀頼は激怒します。

「姫は豊臣の嫁となったのだから、秀頼と運命を共にすべきであろうに。少なくとも自分は助かるとタカをくくって助命嘆願とは片腹痛いわ!」

「まぁまぁ、御所(秀忠)様。ここは大御所様の思し召しもございますれば、一つお話し合いになっては……」

という訳で6月8日、秀忠と家康は話し合うこととなったのです。

……諸人のうけたまはる所にて。  将軍家にむかはせられ。必秀頼をば助命し給へ。こゝが  将軍の分別所なりと宣へば。老人のかくまでいふを聞れねば。このうへは力なし。心にまかせ給へとて。いと御不興の御様にて御座を立せられしが。ほどなく井伊が備より芦田曲輪へ鉄砲打かけしかば。秀頼はじめ悉生害ありしよし聞えし。(天元實記。翁物語。)……

※『東照宮御実紀附録』巻十五「家康殺秀頼」

「御所よ。必ず秀頼を助命せよ。豊臣を滅ぼしたい気持ちは解るが、ここが分別のしどころぞ」

家康は秀忠を諭します。ここまで完膚なきまでに倒したのだから、秀頼には謝罪恭順させれば事足りよう。このまま滅ぼしてしまっては、また判官贔屓によって残党たちが暴れ出しかねない。

それよりはむしろ生かしておいて牙を抜いた方がよいのではないか。そちゃんな思惑があったのかも知れません。

しかし、秀忠は頑として聞き入れません。とうとう家康も匙を投げてしまい、秀忠は芦田曲輪へ攻撃を再開。ほどなくして秀頼母子が自害したそうです。

一、出なかった「鯛の天ぷら」

献上された鯛(イメージ)

多くの視聴者が楽しみにしていた?家康が鯛の天ぷらを食べる場面。よく死因とされますが、鯛の天ぷらに中ったのは死の3ヶ月前。

直接の死因ではなかったものの、これを機に衰弱していったのは確かなようです。

……元和二年正月廿一日駿河の田中に御放鷹あり。そのころ茶屋四郎次郎京より参謁して。さまざまの御物語ども聞え上しに。近ごろ上方にては。何ぞ珍らしき事はなきかと尋給へば。さむ候。此ごろ京坂の辺にては。鯛をかやの油にてあげ。そが上に韮をすりかけしが行はれて。某も給候にいとよき風味なりと申す。折しも榊原内記清久より能浜の鯛を献りければ。即ちそのごとく調理命ぜられてめし上られしに。其夜より御腹いたませ給へば。俄に駿城へ還御ありて御療養あり。一旦は怠らせ給ふ様に見ゆれども。御老年の御事ゆへ。打かへしまたなやましくおはして。はかばか志くもうすらぎたまはず。  君にはとくにその御心を決定せしめられしにや。近臣には兼て御身後の事ども仰られしなり。……

※『東照宮御実紀附録』巻十六「元和二年家康大漸」

時は元和2年(1616年)1月21日。鷹狩りを楽しんだ日の夜、茶屋四郎次郎(三代目)が挨拶にきました。この茶屋四郎次郎は、ゲジゲジ眉毛(二代目)の弟です。

「おぉ、四郎次郎。よう参ったな。どうじゃ、近ごろ上方で面白いことなどないか」

「はい、大御所様。京都大坂では鯛を榧(かや)の油で揚げて、おろした韮(ひる。ニラともニンニクとも)を薬味に食うのが流行っております。前にそれがしも頂きましたが、それはもう風味のよいこと……」

面白い話を聞いた家康は大喜び。「たしか今朝、献上された鯛があったから、さっそくやってみよう!」と作らせました。

「うむ、確かにこれは美味い、美味いぞ!」

しかし75歳にもなって、日ごろ食い慣れぬ油料理をタラフク食えば、そりゃ腹を壊すのも無理はありません。

鯛が傷んでいたのか、それとも油が古くなっていたのか、あるいは食べ合わせの問題でしょうか。

とにかくその日は外泊予定を取りやめ、大急ぎで駿府城へ帰った家康。ちょっと休めばじきに治ろうと思ったのですが、思いのほか体調が回復しません。

これはいよいよまずいんじゃないかと危惧した家康は、近臣たちに遺言を伝え始めたということです。

一、東照大権現について

南光坊天海(画像:Wikipedia)

「人ではない……東・照・大・権・現!」

小栗旬扮する南光坊天海が力説していた家康の神号。えーと、それって家康の生前から決まってたんでしたっけ?(生きている内から死後は神格化することは既定路線だった模様)

確か金地院崇伝と権現号か明神号で争っていたのでは……。まぁ、『徳川実紀』の記述を見て見ましょう。

……御年のつもりにや日をふるにしたがひかよはくならせ給ひつゝ。四月十七日巳刻に駿城の正寝にをいてかんさらせ給ふ。御齢七十に五あまらせ給ひき。  将軍御なげきはいふまでもなし。公達一門の方々御内外様をはじめ。凡四海のうちに有としあるものなげきかなしまざるはなかりけり。御無からは其夜久能山におさめまいらせ給ひ神とあがめ奉る。……

※『東照宮御実紀』巻十 慶長十年四月「家康薨」

元和2年(1616年)4月17日に家康は駿府城で亡くなります。享年75歳。秀忠は言うまでもなく、やんごとなき公家たちから譜代外様の武士たち、そして日本国中なげき悲しまぬ者はなかったそうです。

家康の亡骸は久能山に安置され、神と崇められたのでした。

……あくる三年二月廿一日  内より  東照大権現の  勅號まいらせられ。三月九日正一位を贈らせ給ふ。かくて御遺教にまかせて  霊柩を下野国日光山にうつし奉り。四月十六日御鎮座ありて十七日祭礼行はる。此時都よりも。宣命使奉幣使などいしいし山に参らる。年月移りて正保二年十一月三日重ねて宮號宣下せられ  東照宮とあふぎ奉り。あくる年の四月よりはじめて例幣使参向今に絶せず。……

※『東照宮御実紀』巻十 慶長十年四月「家康薨」

年が明けて元和3年(1617年)2月21日、朝廷より東・照・大・権・現!の勅号(勅命による神号)が追贈されます。

だから天海が家康の生前から東照大権現であると知っていたというのは、事実と異なると言えるでしょう(神号にはいくつか候補がありました)。

そして死後一周年を機に日光山に祀られ、現代に至るまで人々の崇敬を集めています。

一、鯉食ってどうする!

久三郎が味わった鯉の味は(イメージ)

さて、最後の最後で家康が見た白昼夢?回想の鯉エピソード。

信康と五徳の婚礼に際して、織田信長(岡田准一)から贈られた鯉を、家臣たちが食ってしまったエピソード。

何がそんなに大爆笑できたのか(よそ様からの大切な贈り物と知った上であえて食ってしまうという神経が理解できません)理解できませんが、とにかく彼らが面白かったのならそれはもう何も言いません。

ちなみに、これは元ネタがあります(恐らくこれだと思われますが、他にも逸話をご存じの方がいらしたらご教示下さい)。

……いまだ岡崎の城におはしましけるに。御賓客あらむ時の御もてなしのためにとて。長三尺ばかりの鯉を三頭。御池にかひおかせられしを。鈴木久三郎といへる者。ひそかに其鯉一頭とりて御くり屋のものにあつらへ調理させ。志かのみならず其頃織田殿より進らせられたる南部諸白の樽を開て。同僚うちより酒宴せしを。同僚等酒も鯉も上より給はりて。饗する事よと心得て。各よろこびあひて泥酔しまかでたり。其後御池の鯉一頭うせたりと御覧じ付させ給ひて。預りの坊主をめして聞せらるれば。久三郎さる事して。我々もその饗に預りたりと申たるにより。聞しめし驚かせ給ひ。御くり屋のものをたゞされしに。まがふべくもなかりしかば。大に御けしき損じ。久三郎を御成敗あるべしとて。薙刀の鞘をはづし広縁につとたち給ひ久三郎を召けるに。久三郎少しも臆せず。露地口より出て三十間ばかりも進み出しを御覧ぜられ。久三不届もの。成敗するぞと御詞かけさせらるれば。久三郎はをのれが脇差を取て五六間あとへ投すて。大の眼に角をたてゝ。恐入たる申事には候へども。魚鳥のために人命をかへらるゝといふ事はあるべきか。左様の御心にては。天下に御旗を立給はん事は思ひもよらず。さらばとて思召まゝにあそばされ候へと。諸肌ぬぎて御側に近くすゝみよる。其躰思切てみえけるに。御長刀をからりと投すて給ひ。汝が一命ゆるすぞとて奥へ入らせ給ひしが。やがて久三郎を常のおましにめし出て。汝が申所ことはりと聞しめされたり。よくこそ申たれ。汝が忠節の志満足せり。それによりさきに鷹場にて鳥をとり。城溝にて魚を網せしものをとらへをき。近日には刑に行ふべしとめしこめ置しが。汝が今の詞に感じこれもゆるすぞと仰せければ。久三郎も思ひの外なる事とかへりて恐れいり。卑賤の身をもて。恐れをもかへりみず聞えあげし不禮をもとがめ給はず。却て愚言を用ひさせ給ふ事たぐひなく有難し。これ全くゆくゆく天下をも御掌握あるべき。寛仁大度の御器量あらはれ給ひぬとて感涙袖を沾し。志ばしは其座を退く事を得ざりしとなり。……

※『東照宮御実紀附録』巻十九「鈴木久三郎決死諫家康」

長いのでざっくり説明すると、家康がまだ岡崎城にいたころのこと。

家康の鷹場(専用の鷹狩りフィールド。獲物がよく獲れる)や城のお堀で鳥獣や魚を密猟/密漁する家臣たちが相次いで捕らわれてしまいました。家康は処刑する気満々です。

そこで鈴木久三郎という家臣が決心して家康が大事にしていた池の鯉を盗み出し、ついでに信長から贈られた酒もかっぱらってしまいました。

当然、家康は大激怒。久三郎は名乗り出て家康を怒鳴りつけます。

「家臣よりも鳥や魚が大事か!そんなことで天下取りができるものか!」

言われてみればその通り、そもそも家臣たちだって、飢えていなければ密猟/密漁なんてしません。

家康は己の不明を恥じて久三郎を許し、それまで捕らえていた者たちも釈放したのでした。めでたしめでたし。

……というお話し。決して「どうしても鯉を食べたかったから、みんなでドッキリかましてお許しを得たぞワッショイ!」なんて安い話ではなかったのです。

こういう三河武士らしい偏屈さというか心意気を、全編通して魅せてほしかったと思います。

一、茶々の独り演説について

「茶々は……ようやりました」お疲れ様でした(イメージ)

茶々「日ノ本か…ハハッ。つまらぬ国になるであろう。正々堂々と戦うこともせず、万事長きものに巻かれ、人目ばかりを気にし、陰でのみ妬み、嘲る。優しくて、卑屈なかよわき者たちの國に…。己の夢と野心のためになりふり構わず力のみを信じて戦い抜く!かつてこの国の荒れ野を駆け巡った者たちは…もう現れまい」

※NHK大河ドラマ「どうする家康」最終回放送「神の君へ」字幕より

……いきなり始まった独り演説。自分たちが滅びるから「日本はつまらぬ国になる」って……負け惜しみ以外の何物でもありません。

で、豊臣が滅亡して徳川の世になったからこそ、日本はつまらぬ国になった=現に日本はつまらぬ国だと言いたいのですね。制作当局は。

正々堂々と戦えなんて、いったいどこの戦国時代でしょうか。敵を欺き陥れるは武略のうちと亡き太閤殿下・豊臣秀吉(ムロツヨシ)から教わりませんでしたか?

家康が卑怯だと言うなら、それを出し抜く心意気こそ戦国乱世の気風ではないのでしょうか。

そもそもあなたがた母子が丸裸の大坂城にいつまでも引き籠もっているから、こんなことになるのです。

「共に乱世の夢を見ようぞ!」

なんてみんなを煽るだけ煽っておいて、秀頼も茶々も最前線で指揮を執った様子はありません。威勢ばっかりで自分は動かなかったからこそ負けたのでしょう。

もし「そんな事ないぞ!秀頼も茶々も正々堂々戦ったのだ!」というのであれば、ぜひともその様子をドラマ劇中で見せて欲しかったものです。

そういう「積み重ね」がなかったからこそ、全編を通して言うこと為すことちぐはぐで、その場の受け狙いに終始している印象がぬぐえないのではないでしょうか。

私たちの受信料や、一部血税も使われている日本の「公共放送」で、歴史上の偉人を使って当人が実際に言った確証もない日本ヘイトはいかがなものかと思います。

次回作「光る君へ」は令和6年1月7日(日)スタート!

しかし、振り返ってみると一年間あっという間でしたね。

何やかんや言いながら、皆さん楽しめたのではないでしょうか。

紫式部(画像:Wikipedia)

さて、劇中でもちょろっと出てきた『源氏物語』。令和6年(2024年)1月7日(日)からは新たなNHK大河ドラマ「光る君へ」が始まりますね。

合戦がなくて残念がっている大河ファンも少なくないようですが、古式ゆかしき有職故実や典雅の世界に今から興味津々です。

『源氏物語』の作者として知られる紫式部(役名・まひろ)の生涯を、どのように描いていくのでしょうか。

来年のNHK大河ドラマ「光る君へ」皆さんも平安貴族たちが織り成す王朝文化を楽しみましょう!

※参考文献:

『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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