腹を切り、頭を撃ち抜き…江戸城無血開城の裏側で日本最初のピストル自殺をした川路聖謨とは?

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腹を切り、頭を撃ち抜き…江戸城無血開城の裏側で日本最初のピストル自殺をした川路聖謨とは?

日本の主流火器は、両手で扱う火縄銃でした。ところが、幕末の日本では、西洋式銃が伝来したのと同時に、様々な種類の拳銃も輸入されるようになりました。当時、片手で操作できる小型火器の拳銃は、武士にとって初めて見る武器で、関心の的となっていました。

画期的な小型火器である拳銃は瞬く間に日本で広まり、日本国内でも独自の拳銃が開発されるようになります。そして、武士たちは、短刀と共に、量産化された国産拳銃を懐に忍ばせるようになりました。

さらに、アメリカから新式の拳銃がもたらされると、日本市場にアメリカの拳銃が大量に流入し、国内で急速に普及することとなったのです。

1868(慶応4)年、西郷隆盛と勝海舟によって成功させられた江戸城無血開城は、3月15日に予定されていた江戸城総攻撃を中止させ、江戸城下に一滴の血をみることなく行われたとされています。

どう考えても血まみれ!幕末の「江戸城無血開城」は本当はおびただしい犠牲の上に成立した!?

一方で、その裏に、一人の幕臣の死があったことはあまり知られていません。彼の名前は川路聖謨(かわじとしあきら)。ロシア使節プチャーチンが来航した折に、応接係を命じられ、1855(安政元)年、12月の日露和親条約の締結に尽力し、その手腕はロシア側からも高く評価されていた人物でした。

川路聖謨 『幕末・明治・大正 回顧八十年史』東洋文化協會

川路はその後、幕府の要職を歴任しましたが、日米修好通商条約の調印の際、天皇の勅許を得ようと上洛。うまくいかなかったため、そのまま左遷されてしまいます。

この時期、ちょうど幕府内部は将軍の後継者問題が勃発。水戸の慶喜か、紀州の家茂のどちらを選ぶかが問題になっていました 1858(安政5)年4月、井伊直弼が大老に就任すると、14代将軍として家茂を就任させますが、その際に慶喜を推していた一橋派を一掃します。川路もその騒動の渦中にあり、1859(安政6)年に隠居・差控の処分を受けていました。

その後、桜田門外の変が起こると、1863(文久3)年5月に、外国奉行に起用されますが、同年10月には辞職してしまいます。翌年には、中風の発作により、左半身不随となってしまいました。

そして、1868(慶応4)年3月15日、江戸城の無血開城が決定したのを知り、薩長主導の新政府に反駁した川路は、自決の道をとることにしました。

その際、川路は、半身不随のため、刀だけでは切腹しきれないと思ったのか、腹を切った後に、ピストルで頭を撃ち抜いたと伝わります。そして、これが、日本初のピストル自殺として記録されています。

参考

川田貞夫『川路聖謨 人物叢書』(1997 吉川弘文館) 川路寛堂『川路聖謨之生涯』復刻版(2014 マツノ書店)1903 吉川弘文館 初出

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