聖地・富士山に外国人!?江戸時代、初めて富士山に登頂した外国人「ラザフォード・オールコック」

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聖地・富士山に外国人!?江戸時代、初めて富士山に登頂した外国人「ラザフォード・オールコック」

日本の山を代表する富士山。この富士山は、美しい姿をしているだけではなく、長い間、神様の住む山として信仰もされてきました。その神聖性ゆえに、中世にはみだりに入山することすら許されず、旧暦6月1日の山開きから7月20日までの間のみ、富士信仰の道者の登山が許可されていました。

江戸時代には、江戸とその周辺を中心に、富士講という信仰集団が組織され、地域と密着して庶民に浸透していました。

富士講では、富士山頂で日の出を礼拝することを目的に、富士登山が盛んだったが、富士に登拝できない老人や婦女子のためには、富士塚といって、富士山をかたどった塚が、江戸およびその周辺の、神社の境内にいくつも作られ、本物の富士山の代わりとされていました。

Japaaanでも以前、日本で初めて富士登頂した女性についてとりあげました。

富士山の女人結界が解かれる以前に、男装をし女性で最初に富士山に登った「高山たつ」

こうした宗教の聖地である富士山に、外国人の登山など、許されるはずがなかったのですが、1860年(万延元)年9月11日、初代イギリス駐日公使・ラザフォード・オールコックが、はじめて山頂に立ちました。

ラザフォード・オールコック (フェリーチェ・ベアトの撮影による)

オールコックは、幕末の日本の外交分野で活躍した人物で、1809年、ロンドン郊外で医師の子として生まれました。

自らも医学を学び、外科医の免許を受けて、軍医としてポルトガルとスペインに従軍。1839年からは内務省の解剖検査官を務めるも、両手親指の麻痺症状により、外交官に転身します。1844年に、中国・福州の初代領事になり、厦門、上海、広東を歴任した後、1859(安政6)年、初代の駐日総領事として来日、英国の貿易拡大政策を推進するべく、駐日外交官の中心人物となりました。

1864(元治元)年、下関海峡の通行問題で、米・仏・蘭公使と共に、四国連合艦隊による下関砲撃が勃発。世にいう「下関事件」です。この際、オールコックはその処理を巡り、イギリスの外相の意見に反対したため、公使を解任されて祖国に帰国しました。

幕末の日本の様子を記録したオールコックの『大君の都』は、日本の歴史に精通していたのみならず、日本人の生活・社会・文化を驚くべき視野の広さで観察批判しています。

オールコックは当時、幕府から強く反対されたにも関わらず、「外国との新たな関係への怒りや、外国人への敵意があるかを確かめたい」という目的を掲げ、幕府の役人を含み100人を超える登山隊登山を強行しました。その経緯や様子も同著に書かれています。

その後、外国人の富士登山が正式に認められたのは、1872(明治5)年のこと。オールコックが富士山に登頂してから、12年も後のことでした。

参考

ラザフォード・オールコック著 山口光朔訳 『大君の都 〈上〉 – 幕末日本滞在記』(2003 岩波書店) ラザフォード・オールコック著 山口光朔訳『大君の都 〈下〉 – 幕末日本滞在記』(2003 岩波書店)

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