徳川家康を挑発!?「関ヶ原の戦い」を引き起こした、あの天才軍師のカリスマエピソード紹介 (2/3ページ)

Japaaan

直江兼続所用「金小札浅葱糸威二枚胴具足」(Wikipediaより)

直江状と関ヶ原の戦い

豊臣秀吉の没後、徳川家康が政治の実権を握りはじめた1600年4月のこと。上杉景勝の前に会津国を治めていた「堀秀治」が、「上杉家に謀反の疑いあり」と徳川家康に密告します。このとき徳川家康に「直江状」 とよばれる手紙を送ったのが、直江兼続です。

直江状の内容については諸説ありますが、「明らかに噓だと分かる戯言を信じるなんてどうかしている」といった内容でした。この挑発的な手紙に激怒した徳川家康は、会津征伐を決行することにします。

これを知った石田三成は、徳川家康を倒す大義名分ができたと参戦を表明。こうして戦国時代のフィナーレを飾る「関ヶ原の戦い」へと発展したのでした。

天才軍師の由縁

直江兼続が天才軍師とよばれる由縁は、攻めのタイミングと引き際の判断力でしょう。

会津征伐に乗り出した徳川家康軍ですが、石田三成参戦の知らせを聞くと一旦引き返します。戦国時代でも指折りの実力を持つ上杉家と石田三成の両方を相手にするには分が悪いと考えたのでしょう。

このとき、直江兼続は主君・上杉景勝に「今こそ徳川家康を討つべき!」と進言します。しかし、上杉景勝は「ここで家康公を攻めれば、太閤殿下(摂政もしくは関白の職をその子弟に譲った人物のこと)の命令にそむくことになる」と進言を却下。

このとき上杉景勝が逃げ戻る徳川家康を追討していれば、江戸時代に代わる一時代を築いていたかもしれません。

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