徳川家康を挑発!?「関ヶ原の戦い」を引き起こした、あの天才軍師のカリスマエピソード紹介

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徳川家康を挑発!?「関ヶ原の戦い」を引き起こした、あの天才軍師のカリスマエピソード紹介

約140年間続いた戦国時代でフィナーレを飾った「関ヶ原の戦い」は有名ですが、ことの発端となった事件については知らない方が多いのではないでしょうか。

ということで今回は、「関ヶ原の戦い」を引き起こした 天才軍師・直江兼続とそのエピソードについて紹介します。

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直江兼続像(Wikipediaより)

天才軍師・直江兼続とは

直江兼続は、米沢藩(現・山形県周辺)初代藩主・上杉景勝を支えた文武兼備の智将です。「愛」の文字が付いた兜を被っているのが印象的で、ドラマやアニメで見かけたときの記憶が残っている方も多いかもしれません。

ちなみに彼の兜の「愛」は、「愛染明王(あいぜんみょうおう)」または「愛宕神社(あたごじんじゃ)」の頭文字だと言われています。どちらも戦争を司る神様で、戦場で神の加護を受けるために身に着けていたそうです。

直江兼続所用「金小札浅葱糸威二枚胴具足」(Wikipediaより)

直江状と関ヶ原の戦い

豊臣秀吉の没後、徳川家康が政治の実権を握りはじめた1600年4月のこと。上杉景勝の前に会津国を治めていた「堀秀治」が、「上杉家に謀反の疑いあり」と徳川家康に密告します。このとき徳川家康に「直江状」 とよばれる手紙を送ったのが、直江兼続です。

直江状の内容については諸説ありますが、「明らかに噓だと分かる戯言を信じるなんてどうかしている」といった内容でした。この挑発的な手紙に激怒した徳川家康は、会津征伐を決行することにします。

これを知った石田三成は、徳川家康を倒す大義名分ができたと参戦を表明。こうして戦国時代のフィナーレを飾る「関ヶ原の戦い」へと発展したのでした。

天才軍師の由縁

直江兼続が天才軍師とよばれる由縁は、攻めのタイミングと引き際の判断力でしょう。

会津征伐に乗り出した徳川家康軍ですが、石田三成参戦の知らせを聞くと一旦引き返します。戦国時代でも指折りの実力を持つ上杉家と石田三成の両方を相手にするには分が悪いと考えたのでしょう。

このとき、直江兼続は主君・上杉景勝に「今こそ徳川家康を討つべき!」と進言します。しかし、上杉景勝は「ここで家康公を攻めれば、太閤殿下(摂政もしくは関白の職をその子弟に譲った人物のこと)の命令にそむくことになる」と進言を却下。

このとき上杉景勝が逃げ戻る徳川家康を追討していれば、江戸時代に代わる一時代を築いていたかもしれません。

ここで攻めの進言をできた直江兼続は、天才軍師の名に相応しいでしょう。

敵も絶賛!見事な引き際

徳川家康を見逃したあと、会津国に攻め込んできたのが「伊達政宗」と「最上義光」です。

直江兼続は巧みな戦術で最上軍を返り討ちにし、最上の重要拠点である山形城の攻略へ乗り出します。しかし、一歩手前の「長谷堂城」で猛烈な反撃に遭い、一進一退の攻防へと発展。足止めを食らうことになったのです。

そのさなか、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利したという一方が届きます。山形城の制圧まであと一歩という状況だった直江兼続ですが、徳川家康の援軍が駆けつけることを予測して退却の判断を選択。わずかな手勢を率いて、最も危険な軍の最後尾を守りながら、米沢城まで無事に生還したのでした。

この直江兼続の見事な退却戦は、敵将・最上義光や徳川家康までもがのちに絶賛しています。

勝利と敗北は常に紙一重であり、軍師の判断の遅れや迷いは敗北に直結するといっても過言ではないでしょう。それでも直江兼続は、ターニングポイントとなる重要な箇所で即座に最適解を導き出きだせる優秀な軍師でした。

そんな彼が一時代を築く未来があれば、ぜひ見てみたかったものですね。

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