【関ヶ原の合戦】米津正勝と小栗忠政、仲間同士での武功争いの勝者はどちらに?【どうする家康】

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【関ヶ原の合戦】米津正勝と小栗忠政、仲間同士での武功争いの勝者はどちらに?【どうする家康】

時は慶長5年(1600年)9月15日。天下分け目の関ヶ原合戦では、東軍と西軍の合わせて二十万を超える大軍が激闘を繰り広げたと伝わります。

争ったのは敵味方だけではなく、仲間同士でも武功を競ったのは言うまでもありません。

今回は徳川家康に仕えた米津正勝(清右衛門)と小栗忠政(又一)のエピソードを紹介。果たして軍配はどちらに上がったのでしょうか。

意気揚々と首級を献上した清右衛門。しかし……

武功を競う清右衛門と又一(イメージ)

「よっしゃあ、首を獲って参ったぞ!」

先制したのは清右衛門。前線から戻って意気揚々と敵の首級を見せつけました。

「どうじゃ又一、そなたに首が獲れるかのぅ?」

日ごろから仲の悪い二人。清右衛門の挑発を、受けない又一ではありません。

「ふん、左様な虱首(しらみくび)一つで得意げに。然らばわしは、兜首でも拾って来ようかのぅ」

そう言い放って、清右衛門と入れ替わるように前線へ駆け出していった又一。果たして首尾やいかに。

「へっ、負け惜しみを……ともあれ、さっそくこの首級を御大将(家康)の実検に献じねばのぅ」

首を持って家康の元へ参上した清右衛門。しかし家康は清右衛門の武功を褒めるどころか、厳しく叱りつけました。

「バカもん!そなたは使番(つかいばん。伝令将校)であろう。本来任務を投げ出して首の一つ二つ持ってきたところで、それが何の役に立つと思うとるのか!」

確かに敵を倒し、その首級を上げるのは戦さの花形。最も高く評価される武功には違いありません。

しかし戦さはただ戦うだけでなく、部隊間の連携や補給など、戦える状態を維持する任務がより重要となります。

家康の指示を各部隊に伝え、また前線の状況を報告する使番は、まさに家康の目や口や耳といったところ。

目や耳が手足の働きをしたがるようでは、身体が上手く動かせなくなってしまうでしょう。

「……血気に逸り、申し訳ございませぬ。まこと不覚にございました」

がっかりして家康の御前から下がり、持ち場に戻った清右衛門。すると間もなく、又一が戻ってきました。

その手には、宣言どおりに兜首を持っています。

「よう清右衛門。その顔は、叱られたようじゃの」

「ふん。そなたも叱られて来るがよいわ」

清右衛門の捨て台詞を聞いて、又一は笑いました。

「いや、この兜首はあくまでそなたと張り合うために獲ったまで。実検に供しようとは思っておらぬ」

そう言って、又一は持っていた兜首をかたわらに投げ捨てます。

「あーあ、勿体ないのぅ」

「仕方あるまい。我が武功にならんのなら、首なんぞただ重いだけじゃ」

「……まぁ、そうなるな」

谷川へ転げ落ちた兜首を眺めながら、二人はしばし立ち尽くすのでした。

終わりに

自分の手柄にならなけりゃ、首などただ重たいだけ(イメージ)

……米津清右衛門正勝敵の首取来て小栗又一忠政に向ひ。我ははや高名せしといふ。忠政かねて清右衛門と中あしければ。汝が志らみ首とるならば。我は冑附の首取てみせむといふて先陣へ馳ゆく。清右衛門はかの首を御覧に入しかば。使番つとむる者は先手の様を見てはやく本陣に注進するが主役なり。首の一つや二つ取て何の用にか立とて警め給ひしなり。忠政はやがて冑付の首とり来て清右衛門に。これ見よ汝になるほどの事が我になるまじきかといひて。その首をば路傍の谷川に捨てけり。……

※『東照宮御実紀附録』巻十

以上、関ヶ原合戦における米津清右衛門正勝と小栗又一忠政の武功争いを紹介しました。

勝負はドローと言えますが、又一の方が首級の質と言い、思慮深さと言い一枚上手。ここは又一の判定勝ちと言ったところでしょうか。

使番は使番、それぞれの使命を果たすことこそ何よりの武功。皆それぞれに助け合ってこそ戦さに勝てる強い組織は作れるものです。

徳川家臣団には他にもたくさん個性的な武将たちがいますから、また改めて紹介したいと思います。

※参考文献:

『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション

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