あまりにもブラックすぎ…身分差別や強制入隊、突然のクビ…美化されすぎた「奇兵隊」の真実
高杉晋作と奇兵隊
高杉晋作は今でも日本史上の人物で高い人気を誇ります。そんなこともあり、彼の設立した奇兵隊は、現在でも高く評価されています。
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奇兵隊が設立されたのは、1863年に起きた下関戦争がきっかけでした。この戦争によって欧米列強との力の差を見せつけられた高杉。彼は、諸外国に対抗するには日本も近代的・西洋的な軍隊を持つことが必要だと考えました。
で、彼は藩の首脳たちを説得して奇兵隊の設立を発案。西洋式の部隊を結成するに至ったのです。
奇兵隊の最大の特徴は、あらゆる身分から隊士を募ったことでした。例えば武士の最下層である足軽や中間、それどころか戦闘とは関係なかった町民や農民までもが参加したとされています。
この「身分に関係なく隊士を募った」という点から、奇兵隊というのはメンバーが皆平等に扱われ、等しく戦闘訓練を受ける部隊だったのだと思われるかも知れません。
実際、長らくそのようなイメージが定着していました。つまり、奇兵隊というのは明治維新に先駆けて「四民平等」を実現した近代的で理想的な部隊だったというイメージです。
しかし実際にはそんなことはありませんでした。そもそも奇兵隊の隊士の半数は武士が占めており、四割が農民、一割がその他という程度だったのです。構成員の出自は、それほど均質なものではありませんでした。
さらに、奇兵隊には身分ごとの区別もありました。
身分差別や強制もあったまず奇兵隊では、武士以外の人は「匹夫(ひっぷ)」と呼ばれていたそうです。ちなみに匹夫とは、身分が低い男性のことや、教養のない人のことを指す言葉です。
また、奇兵隊の隊規では、隊士たちは着るものを身分ごとに区別されていました。使える生地や色が身分によって細かく分類されていたのです。
また「奇兵隊は四民平等」というイメージからは、隊士たちは皆、志を持って志願したかのように感じるかも知れません。つまり隊士たちは身分は違えど、志を同じうする者同士が平等に結束した部隊だったのだ……ということですね。
しかしこれも間違いで、奇兵隊のメンバーは純粋に応募・志願した者ばかりではありませんでした。中には無理やり参加させられた隊士もいたのです。
奇兵隊の結成時、実は思ったほど隊士は集まりませんでした。そこで長州藩は、農家の次男坊や三男坊など、家を継ぐことができずあぶれてしまった立場の若者たちに目をつけます。彼らは強引に徴用されたり、あるいは脅されるなどして隊に参加させられました。
それだけならまだしも、さらに集落の乱暴者や鼻つまみ者などが、軽い気持ちで奇兵隊に入ったケースも少なくありませんでした。
こんな有様だったので、隊では訓練に耐えられる脱走する者も多くいたのです。
突然の解散と集団解雇こんな玉石混交の集団なので、トラブルが起きるのも当然だったと言えるでしょう。奇兵隊は長州藩の正規の部隊と馬が合わず、正規部隊の隊士の一人を殺してしまう教法寺事件を起こしてしまいます。
この事件が起きたのは、奇兵隊結成からわずか三か月後のことでした。この事件の責任を問われ、高杉は総督の職を罷免されています。
もちろん、そんな奇兵隊も、実際の戦争では活躍しました。例えば第二次長州征伐では、藩軍の中心的存在となって幕府軍を圧倒しています。また戊辰戦争でも政府軍の一部として数々の戦果を挙げました。
では戊辰戦争が終了した後、奇兵隊はどうなったのでしょうか? 中には、山縣有朋のように政府で活躍した人もいましたが、実はほとんどの隊士たちはいきなりクビになっています。
これは奇兵隊だけではなく、奇兵隊を含む長州藩の各部隊に共通する措置でした。隊士たちは、論功行賞を与えられることもないまま解散させられたのです。
当時、これらの各部隊の隊員は総勢5千人以上いました。しかし、新たに結成されることになった常備軍で引き続き雇われたのは、半分以下の2千人ほどに過ぎませんでした。
さすがに、この措置に激怒した各部隊の隊士のうちおよそ2千人は、反乱事件を起こしています。それも無理のない話ですね。
このように見ていくと、実は一般的に知られている奇兵隊のイメージはかなり美化されたものだと分かるでしょう。四民平等などという素晴らしいものではなく、その内実は大変ブラックだったのです。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan