これは驚き!江戸時代の貨幣「寛永通宝」はなんと昭和時代まで使われていた

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これは驚き!江戸時代の貨幣「寛永通宝」はなんと昭和時代まで使われていた

寛永通宝とは何か

皆さんは、寛永通宝(かんえいつうほう)という貨幣をご存じでしょうか。

貨幣の歴史に詳しい人なら言わずもがなでしょうが、これは徳川三代将軍である家光の時代に鋳造され、一般に流通した貨幣のことです。これは、実質日本で初めての国内統一通貨だったと言えるでしょう。

徳川家光像(Wikipediaより)

もちろんそれ以前にも通貨は存在していました。少し、その歴史をたどってみましょう。

古代の日本には貨幣は存在せず、物々交換が基本だったと考えられています。その後、645年の大化の改新以降に、唐の貨幣を真似た和同開珎が皇朝銭として作られるようになりました。

もっとも、それ以前にも貨幣が使われた痕跡はあるのですが、それは一般に流通していたとは考えにくいようです。

しかし皇朝銭はいろいろあって使われなくなり、10世紀末には鋳造されなくなっています。

そして11~12世紀になると、高麗や宋との貿易が盛んにおこなわれるようになる中で、宋の銅銭が大量に輸入されます。これが日本国内でも通貨として使われるようになりました。

かつて日本でも使われていた「宋銭」

こうした海外渡来の貨幣は、その後禁止されます。それが1670年の寛文10年のことでした。

禁止された理由は、寛永3年から、徳川幕府が各地の「銭座」に指示を出して鋳造させていた寛永通宝が、ようやく全国に流通させられるだけの量になったからです。

こうして使われるようになったのが、寛永通宝だったのです。

つまり、日本国内でもそれまでは貨幣が存在していましたが、支障なく使える一般的なものとしては寛永通宝が最初だったということです。

つい最近まで使われていた

この寛永通宝は、どのような貨幣だったのでしょうか。

寛永通宝の一枚の重量は1匁(3.75グラム)、銭径は8分(2.4センチ)が標準でした。その後は軽量化されたものや縮型のもの、鉄銭なども鋳造されています。

寛永通宝

と、ここまで聞くと寛永通宝というのはずいぶん古い貨幣だと思われるかも知れません。しかし驚くべきことに、この通貨、実はつい最近まで実際に使える貨幣として流通していました。

では、最近というと明治時代頃まで? と思うでしょう。そうではなく、なんと戦後まで、寛永通宝は通貨として認められていたのです。

寛永通宝には一文銭と四文銭がありました。そして明治時代に新しい単位である円・銭・厘ができると、一文銅銭が一厘となり、一文鉄銭は16枚で一厘と換算されるようになりました。

そして、1897(明治30)年の貨幣法により、江戸時代に鋳造された貨幣は使用が禁止されました。が、なぜか寛永通宝のうち一文銅銭と四文真鍮銭は禁止される対象から外されてしまったのです。

ただ、実際にはほとんど使われることはなかったようです。使用されていたのはせいぜい明治時代中期頃までだったとか。それも当然のことですね。

寛永通宝が通貨としての価値を完全に失ったのは、戦後の1953(昭和28)年のことでした。金銭の単位が改められ、銭・厘が廃止されたのです。

ここでようやく、寛永通宝は完全に通用停止となりました。

この点を見ていくと、江戸時代というのは実はそんなに古い時代でもない気がしてくるから面白いですね。

参考資料:
新宿区町会連合会
Super源さんの雑学事典
浜島書店

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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