あの井上馨の命を救った!?幕末、祇園一の美貌の持ち主だった芸妓・中西君尾とは?

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あの井上馨の命を救った!?幕末、祇園一の美貌の持ち主だった芸妓・中西君尾とは?

みなさんは、「中西君尾(なかにしきみお)」という人物を知っていますか?名前の読み方だけだと、「男性かな?」と思ってしまうかもしれませんが、女性です。

歴史の教科書などではなかなか彼女の名前を見ることはないかもしれませんが、実は、激動の幕末期において、さまざまな手助けをした人物でした。

そこで、今回の記事では、そんな中西君尾という人物に迫ってみたいと思います。

江戸時代後期、京都に生まれる

中西君尾は、1844年(弘化元年)に京都・丹波船井郡に生まれました。父は侠客(きょうかく:義侠・任侠を建て前として世渡りする人)、母は美人だったといいます。中西君尾はそんな母親の美貌を受け継ぎ、成長していきます。

祇園で一番の美貌!

中西君尾は、19歳のときに祇園の置屋、島村屋から芸妓となりました。祇園で一番の美貌の持ち主とまで言われたほど美しかったといいます。

さらに、性格もさっぱりしていて男性たちからの受けも良かったといいます。さまざまな志士たちと交流しますが、中でも長州藩士との交流が多かったと言われています。

高杉晋作や井上馨との交流も

有名な高杉晋作(たかすぎしんさく)も中西君尾と交流を持ちます。ただし、これは自分自身の愛人に、という理由ではなく、同じく長州藩士の井上馨(いのうえかおる・当時は井上聞太という名前)と君尾を引き合わせるためでした。

井上馨の肖像

井上が中西君尾に惚れたことはもちろん、君尾自身も井上のことを愛していました。

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あるとき、井上が刺客に襲われた際、懐に入れていた鏡に刃があたり、一命をとりとめたというエピソードがあります。その鏡は、中西君尾が井上に渡したものでした。

維新後も芸者を続けた

多くの志士たちを夢中にさせた中西君尾ですが、最後に結ばれたのは品川弥次郎。彼との間には子どもをもうけています。維新後も彼女は芸者を続け、75歳のときになくなりました。

ちなみに、新政府軍が江戸に向かう際に歌った「風流トコトンヤレ節(「宮さん 宮さん お馬のまえの ひらひらするものなんじゃいな」という歌)」は、品川が作詞し、君尾が作曲したという説もあります。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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