原因はクーデター…紫式部(まひろ)の父・藤原為時の短すぎる栄華と権力争いに巻き込まれた悲劇【前編】

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原因はクーデター…紫式部(まひろ)の父・藤原為時の短すぎる栄華と権力争いに巻き込まれた悲劇【前編】

藤原為時の出世

大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の『源氏物語』の作者・紫式部ですが、その父である藤原為時は、宮中の政争に巻き込まれて不遇の人生を送っています。

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一瞬だけ彼に訪れた栄光の頂点と言える時期は、式部が15歳となった984年のことです。当時の円融天皇は、17歳だった師貞親王に譲位。師貞親王は花山天皇として即位しました。

花山天皇(明治23年・月岡芳年「花山寺の月」より)

これにより、もともと師貞親王から信頼されていた為時は、式部丞・六位蔵人に任ぜられます。これにより、為時はいっときの「我が世の春」を謳歌することになりました。

この時期の為時は、藤原北家の本流である藤原兼家の子・道兼から宴に招待され、和歌を詠んだりしています。

また、漢詩人としても歌人としても有名な具平親王の詩宴にも、当時の著名な文人たちに交じって参加。詩を詠じたりしていました。

この藤原道兼の宴席で、為時が詠んだという歌が以下のものです。

   遅れても 咲くべき花は 咲きにけり
   身を限りとも 思ひけるかな

現代語に訳するなら、「咲き遅れている花も、咲くべきものであれば必ず咲く。自分にもう出世の目はないと思っていたものだが」とでもなるでしょうか。

ようやく出世した為時の喜びようが分かる内容ですね。

藤原兼家の策謀

しかし、為時の幸運は長くは続きませんでした。実は、彼が出世するきっかけとなった円融天皇の譲位は、藤原兼家の策謀によるものだったのです。

藤原兼家(Wikipediaより)

もともと兼家は、次女である詮子を円融天皇に嫁がせていました。よって、詮子が生んだ自分の孫にあたる懐仁皇子を早く皇位に就かせたいと考えていました。

そこで兼家は一計を案じ、懐仁皇子を師貞の皇太子とします。その上で、円融天皇に譲位を迫っていたのです。

そして、結果として円融天皇は師貞親王に譲位したわけです。兼家の目論見は見事に成功したのでした。

つまり、花山天皇の即位はもともと自分が権力を握るための兼家の企みでもあったのです。彼は、花山天皇をいつまでも天皇の座に就かせておくつもりはなかったと考えられるでしょう。

もともと藤原為時の栄光は、花山天皇の即位あってこそでした。この後、兼家の策謀に巻き込まれる形で、為時はその地位を失ってしまうことになるのです。

その詳細は【後編】で解説します。

参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)

トップ画像(左):大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより

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