原因はクーデター…紫式部(まひろ)の父・藤原為時の短すぎる栄華と権力争いに巻き込まれた悲劇【後編】

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原因はクーデター…紫式部(まひろ)の父・藤原為時の短すぎる栄華と権力争いに巻き込まれた悲劇【後編】

寵愛した女御の死

【前編】では、藤原兼家の策謀によって花山天皇が即位し、それに引っぱられる形で紫式部の父・藤原為時も出世できたということを解説しました。
前回の記事はこちら:

原因はクーデター…紫式部(まひろ)の父・藤原為時の短すぎる栄華と権力争いに巻き込まれた悲劇【前編】

【後編】では、兼家の計略に翻弄される形で、彼らがその地位を失っていった経緯を見ていきましょう。

紫式部像

花山天皇が、兼家の野望にどこまで気付いていたかは不明です。ともあれ花山天皇は、藤原忯子という女性を深く愛して女御に迎えました。忯子は、かつて兼家と激しい出世争いを繰り広げていた藤原為光の娘です。

花山天皇から深い寵愛を受けた忯子ですが、彼女は懐妊した直後の985年に急死しました。わずか17歳という若さでした。

花山天皇は、最愛の妻を失ったことで嘆き悲しみます。そしてその話を聞きつけたのが兼家でした。彼は、天皇の蔵人だった息子の道兼を通じて、出家するよう天皇を説得したのです。

寛和の変

そして、ここからがクーデターです。986年、道兼は「自分も一緒に出家する」と約束して、6月23日の深夜に花山天皇とともに御所を出ました。

元慶寺

行き先は京都山科の元慶寺です。そこで道兼は、天皇が髪を剃ったのを見届けると、「出家前に、父に今の姿を見せてくる」と言ってその場から立ち去りました。

その隙に、兼家は天皇が代々皇位の証として継承していた三種の神器を、自分の孫である懐仁親王のところへ移していたのです。実際には、この神器の移動を行った実行犯は兼家の長男の道隆と次男の道綱でした。

花山天皇も、道兼が一向に戻ってこないことから謀られたことに気付きます。しかし既に剃髪していたので時すでに遅し。その翌日には、兼家は懐仁親王を一条天皇として即位させました。

これが、のちに寛和の変と呼ばれることになる政変の顛末です。ちなみに、この政変のきっかけとなった藤原忯子と花山天皇の熱愛は、『源氏物語』の桐壺帝と桐壺更衣の関係のモデルとされています。

側近たちの失脚

さて、このクーデターによって藤原兼家はめでたく天皇の外戚としてのポジションを手に入れます。

彼は、まだ幼い一条天皇のかわりに政治を行う摂政に就任しました。

そして、冷泉天皇に嫁がせていた長女・超子の子である居貞を一条天皇の皇太子とします。それに加えて、クーデターの実行犯である自分の息子たち(道隆・道綱・道兼)と、それに藤原道長をどんどん出世させました。

藤原道長(Wikipediaより)

花山天皇がその地位を追われたことで、側近として仕えていた人たちも職を失うことになります。

例えば、花山天皇の叔父であり、実質的に政治を取り仕切っていた藤原義懐は、天皇に続いて出家。母親が天皇の乳母だった藤原惟成も同様で、共に政治の舞台から退いています。

この累は藤原為時にも及びました。彼が当時、式部丞・六位蔵人の地位にあったことは【前編】で説明しましたが、クーデターによって解任されたのです。

そして彼は、その後の10年間は官職に就かないとする散位という状態になったのでした。彼が「我が世の春」を謳歌することができたのは、花山天皇が政治の舞台に立っていたわずか一年十か月ほどの短い期間だったのです。

参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)

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