踊ってる場合じゃないだろ!踊り好きが災いし城を落城させてしまった戦国武将がいた!

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踊ってる場合じゃないだろ!踊り好きが災いし城を落城させてしまった戦国武将がいた!

突然ですが、皆さんは兵主源六(ひょうす-げんろく)という戦国武将はご存知でしょうか。兵主源六は歴史の表舞台に立つことがなかったこともあり、知る人ぞ知るマイナーな武将で知られています。

そんな彼ですが、実は戦国武将史上あまりにも情けない理由で城を明け渡していました

今回は兵主源六を知ってもらうために、どんな理由で城を明け渡してしまったのかご紹介します。

金剛城の城主・兵主源六

山名豊国/Wikipediaより

因幡国(現在の鳥取県)の金剛城(こんこのじょう・現在の鳥取市鹿野町)の城主だった源六は、同じく因幡国の鳥取城の城主・山名豊国の家臣でした。

しかし、山名家の衰退と毛利家が因幡国まで勢力を伸ばしたため、毛利家に服属しています

天正8年(1580)になると、羽柴秀吉を総大将にした中国攻めが因幡国まで侵攻。鳥取城が羽柴軍の攻撃を受け、源六はゲリラ戦法を駆使して戦います

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土地を知っている源六ならではの奇襲は、羽柴軍を大いに苦しめました。

神出鬼没の源六を阻止するため、秀吉は金剛城の攻略を鹿野城の城主に命じられた亀井玆矩(これのり)に指示しました。

踊りにつられて城を失う…

金剛城は標高293mの堅牢な山城かつ源六が武勇に秀でていたため、玆矩は力攻めでは落とせないと判断し、策を練ります。

策のために源六を調べた結果、大の踊り好きであることが判明しました。

そして、天正8年(1580)の盂蘭盆会(7月14日)に金剛城の城下町にて踊りの大会を実施しました。笛や太鼓が加わった踊りに領民たちは大盛り上がり。

その様子を見た源六は居ても立っても居られず、城下町にて踊りに加わりました。家臣たちも源六のように踊りだしたので、金剛城はあまり人がいない状態でした。

この状態を好機と見た玆矩は踊りに混じった部隊とあらかじめ金剛城付近に待機していた部隊に火計を指示。源六は燃え上がった金剛城を見て、落ち延びました

それ以降の源六の詳細は不明です。こうして、堅牢な城だった金剛城は踊りによって双方犠牲を出さずに攻略されました

酷評の兵主源六

落城以降、金剛城は周囲で「踊見の城(おろりみのしろ)」と呼ばれましたが、いつの日か訛ったことで「汚登路免城(おどろめじょう)」と呼ばれるようになりました。

また、戦わずに敵前逃亡した源六には、「戦わずに簡単に城を取られて滅ぼされるとは醜態の極みである」と酷評を受けることになりました。

踊りは亀井踊りとして現代に

津和野踊り/日本遺産津和野今昔より

そして、金剛城を攻略するために踊られた踊りは戦勝祝いを込めて「亀井踊り」と呼ばれ、玆矩が鹿野藩主となった亀井家で継承されました。

亀井踊りは現代でも踊り継がれ、鳥取県の無形民俗文化財として知られています。

玆矩の勇姿を伝えるため、金剛城の合戦の様子を太鼓で表現した「鹿野亀井太鼓」も創作されました。

また、玆矩の子・亀井政矩(まさのり)が元和3年(1617)に鹿野藩から津和野藩(現在の島根県津和野町)に移封となった際に亀井踊りも受け継がれ、津和野では「津和野踊り」として伝わっています。

ちなみに、踊っている人が身に着けている黒頭巾は兜を隠すために被っていた頭巾の名残です。

参考:長谷川ヨシテル『ポンコツ武将列伝』‎2017年、柏書房

トップ画像はイメージ:「ええじゃないか」に興じる人々(Wikipediaより)

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