どう描かれるのか期待!藤原道長に仕えた武士たち「道長四天王」を知っているか?【光る君へ】
平安時代と聞くと、多くの方がやんごとなき貴族たちを思い浮かべるのではないでしょうか。
しかし実際には武士が登場しており、平安貴族の代表的存在である藤原道長の下にも、多くの武士たちが仕えていました。
今回は道長に仕えた武士たちの中から特に優れた道長四天王を紹介。果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」には登場するのでしょうか。
※登場順は50音です。優劣があった訳ではありません。
道長四天王・平維衡(たいらの これひら)生没年不詳
平将門の乱を鎮圧した平貞盛の四男として誕生します。伊勢国に勢力基盤を築いて地位を確率、いわゆる伊勢平氏の祖となりました。
長徳4年(998年)、またいとこの平致頼と合戦を繰り広げて朝廷より咎められてしまいます。
大江匡房『続本朝往生伝』では源満仲・源満正・源頼光・平致頼と「天下之一物(天下の逸物、ここでは名だたる武士の意)」に挙げられるほどだったとか。
なお維衡より五代子孫に、かの有名な平清盛がいます。
【伊勢平氏略系図】
維衡-正度-正衡-正盛-忠盛-清盛
生年不詳~寛弘8年(1011年)没
又従兄弟である平維衡ともども暴れ者だったようで、長徳4年(998年)の合戦では朝廷の咎めに反省せず、隠岐国へ配流となってしまいました。
ちなみに維衡は、過状=反省文を提出して赦されています。致頼の不器用ぶりが目に浮かぶようですね。
3年後の長保3年(1001年)に赦免され、都へ戻ってきました。
しかし寛弘4年(1007年)、藤原伊周(これちか)・藤原隆家(たかいえ)兄弟の差し金で道長暗殺を謀ったとの風聞が流れます。
それから程なくして、世を去ったのでした。
道長四天王・藤原保昌(ふじわらの やすまさ)天徳2年(958年)生~長元9年(1036年)没
藤原道長・頼通父子の家司を務めた豪傑。後に恋多き女流歌人として知られた和泉式部を妻に迎えました。
彼女への求婚に際して、紫宸殿(ししんでん。内裏の正殿)から梅の枝を折ってきて欲しいとせがまれたそうです。
保昌は厳重な警備をかいくぐって梅の枝を奪取。まさに命懸けで求愛を実らせたのでした。
また『今昔物語集』には笛を吹いたままど盗賊を怯ませたエピソードが伝わっており、只者ならざる武威を感じさせます。
道長四天王・源頼信(みなもとの よりのぶ)安和元年(968年)生~永承3年(1048年)没
元は道長の兄である藤原道兼に仕えていましたが、道兼の死後に道長へ仕えます。
諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任、やがて河内国(大阪府南部)へ土着して後世河内源氏の祖となりました。また関東にも赴任し、東国へ勢力基盤を築いていきます。
関東では平忠常の乱を二度にわたり鎮圧するなど武威を顕わし、大いにその名を高めたのでした。
なお、頼宣より六代子孫が鎌倉に幕府を開いた源頼朝です。
【河内源氏略系図】
頼信-頼義-義家-義親-為義-義朝-頼朝
※諸説あり
以上、藤原道長に仕えた武士たち「道長四天王」を紹介してきました。
しかし、四人とも道長の配下ではあったのでしょうが、藤原保昌を除いては道長と密接に奉公していた様子があまり見られません。
恐らく、一堂に会して活動したことはないのでしょう。
「一応は道長の下に属していた武士たちの中から、特に豪傑をピックアップしてみた」と言ったところかと思われます。
いずれにしても、彼ら道長四天王が大河ドラマに登場するのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』中公新書、2011年9月 大津透ら編『藤原道長事典 御堂関白記からみる貴族社会』思文閣出版、2017年9月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan