女官と密通、大人数での乱行騒ぎで天皇をブチ切れさせた公家・猪熊教利がどうしようもなさすぎる…

Japaaan

女官と密通、大人数での乱行騒ぎで天皇をブチ切れさせた公家・猪熊教利がどうしようもなさすぎる…

いつの時代にも、異性にモテてモテて仕方がない人はいるものです。今回紹介する事件の中心となった人物・猪熊教利(いのくまのりとし)も天下無双と称されたほどの美男子だったとか。

そんな彼が絡んだ事件とは、どんなものだったのでしょうか?

Wikipediaより

のちに江戸幕府による公家への規制を強めるきっかけにもなった事件「猪熊事件」について詳しくご紹介したいと思います。

※あわせて読みたい:

酒に飲まれた男の末路…酒に酔って上皇にとんでもない愚行を働き処刑された武将・土岐頼遠。その愚行とは?

女ぐせが悪かった美男・猪熊教利

事件の中心となる人物、猪熊教利は、安土桃山時代から江戸時代の初めにかけて生きた公家です。権大納言、四辻公遠(よつつじきんとお)のもとに、天正11(1583)年に生まれました。

『源氏物語』の光源氏や『伊勢物語』の在原業平の再来と言われるような美男子だったそうです。後陽成天皇に仕え、芸事にも通じていたそうです。

また、戦国時代の末期から武家で流行した「かぶき者(派手な恰好をし、常識破りの行動をする)」の精神も持っており、猪熊の髪型や帯の結び方は「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれました。これは、京都の流行にもなったようです。

そんな猪熊ですが、女ぐせの悪さでも有名で、人妻や宮廷に仕える女官とも関係を持っていました。当時の資料には、「公家衆乱行随一」と称されてしまうほど。

天皇から勘当される

慶長12年(1607年)には、女官との密通がバレて後陽成天皇から勅勘(勘当)を被ります。猪熊は大坂へ逃げますが、いつの間にかまた京へ戻っていました。

公家たちの危ないパーティー

猪熊は同じくかぶき者だった花山院忠長(かさんのいんただなが)が、後陽成天皇のお手付き新大佐(しんのおおすけ)と逢瀬を重ねていることを知ります。

この輪を広げるため、猪熊は遊び仲間を誘ってお手付きの女官たちと遊ぶことに。さまざまな場所で乱交を繰り返しました。公家と女官は合計14人だったそうです。

これを知った天皇は大激怒

大人数の乱交騒ぎですから、天皇の耳に入らないことがありません。このことを知った後陽成天皇は大激怒。全員に死罪をと命じますが、京都所司代の調査の結果、さらに大人数が関わっていることがわかり、社会の混乱を避けるため全員の死罪は避けることに。

猪熊ともうひとり兼康備後は死罪となりましたが、ほかは配流や恩免となりました。

公家への規制を強める江戸幕府

スキャンダラスな猪熊事件は、その後にも大きな影響を与えました。公家の乱れっぷりが世に知られただけでなく、江戸幕府はこの事件を良いきっかけと捉え、公家支配に乗り出します。

慶長18年(1613年)には「公家衆法度」を制定し、2年後の慶長20年(1615年)には、有名な「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」の制定も行います。禁中とは朝廷・天皇などを指し、幕府が朝廷と公家を規制できるようになりました。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

トップ画像:Wikipediaより(パブリック・ドメイン)

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「女官と密通、大人数での乱行騒ぎで天皇をブチ切れさせた公家・猪熊教利がどうしようもなさすぎる…」のページです。デイリーニュースオンラインは、禁中並公家諸法度猪熊教利後陽成天皇安土桃山時代公家カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る