見事に騙された!平安時代、花山天皇はなぜ即位わずか数年で退位させられたのか?「寛和の変」に迫る (2/2ページ)

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さまざまな政治改革を行うが、関白や右大臣らと対立した

花山天皇は、叔父にあたる円融天皇の譲位を受けて、永観2年(984年)、16歳のときに天皇に即位します。

関白は円融天皇のときと同じく藤原忠頼が務めましたが、実際に力を握っていたのは花山天皇の外叔父藤原義懐と乳母子藤原惟成でした。

彼らの補佐を受けながら、荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、武装禁止令、物価統制令、地方の行政改革などの政治改革を行いますが、関白とは対立していくように。

また、右大臣・藤原兼家は孫である皇太子(後の一条天皇)の即位と自分の摂政就任を早めるために、花山天皇の退位を望んでいました。

藤原兼家は息子に天皇に対して出家を勧めさせる

花山天皇は、寛和元年(985年)寵愛していた藤原忯子が急死し、出家を考えるようになりました。そこで藤原兼家は天皇に仕えていた彼の次男・道兼に天皇に出家を勧めさせます。

道兼は花山天皇に、「自分も出家しますから」と言いましたが、いざ花山天皇が髪を落とすと、道兼は「出家前の姿を父に見せたい」といってどこかへ行ってしまいます。

そこで、花山天皇は自分が騙されたことを知るのです。騙し打ちに遭い、天皇の位を譲る形になりました。これが、「寛和の変」と呼ばれる政変です。

摂関政治の一つの転換点になる事件だった

その後、藤原兼家の望んだとおり、一条天皇が即位し、兼家は摂政に就任します。彼は、それまでの慣例を破り、右大臣を辞任して摂政専任の先例を生み出しました。

このことから、「寛和の変」は摂関政治の一つの転換点になる事件でした。ちなみに、陰陽師の安倍晴明は花山天皇の退位を知っていたと言われています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです!

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