これはえげつな!!花山天皇が母と娘それぞれに生ませた皇子たち【光る君へ】
NHK大河ドラマ「光る君へ」皆さんも楽しんでいますか?
劇中で、師貞親王(花山天皇)が「母親と娘を同時に抱いていたら、手応えも似ていてしまいにはどっちがどっちか分からなくなった」なんて話をしていました。
何ともえげつないエピソードながら、これは一部実話なのです。
厳密には花山天皇が出家した後の話なのですが……という訳で、今回は花山天皇が母娘それぞれに生ませた皇子たちの生涯をたどってみましょう。
※関連記事:
花山天皇の女御(おんな)たちは早逝した藤原忯子だけじゃなかった!それぞれの生涯をたどる【光る君へ】※出家しているので厳密には花山「法皇」ですが、分かりやすさの都合上、花山天皇で統一します。
まずは人間関係・家系図を整理今回の話は人間関係がややこしいので、まず整理しておきましょう。
花山天皇第65代天皇陛下。 冷泉天皇
第63代天皇陛下。花山天皇の父親。 中務(なかつかさ)
平祐之の娘で平祐忠の妻。後に花山天皇の愛妾となる。 平平子(たいらの へいし/ひらこ)
平祐忠と中務の娘。母の中務と同時期に花山天皇の愛妾となる。 平祐之(すけゆき)
中務の父親。身分が低いこと以外は詳細不明。 平祐忠(すけただ)
中務の夫で平子の父親。中務と死別か離婚したものと考えられる。 清仁親王(きよひとしんのう)
中務が生んだ花山天皇の第一皇子。後ほど詳解。 昭登親王(あきなりしんのう)
平子が生んだ花山天皇の第二皇子。後ほど詳解。
これだけでも、家系図がなかなかカオスになりますね。
ひとまずは以上を踏まえて、二人の皇子を紹介していきましょう。
花山天皇の第一皇子・清仁親王生年不詳~長元3年(1030年)7月6日没
清仁親王は複雑な家庭の事情から、異母弟であり義理の甥でもある昭登親王と共に祖父・冷泉天皇の第五・第六皇子として育てられました。
しかし人々は実態を知っており、清仁親王を親腹皇子(おやばらのみこ)、昭登親王を女腹皇子(むすめばらのみこ)と陰口したと言います。
寛弘元年(1004年)に昭登親王と共に親王宣下。これで正式に冷泉天皇の皇子として認められました。
これに対して花山天皇と対立していた藤原道長は難色を示したものの、やむなく受け入れます。
出家したとは言え、花山天皇の影響力は道長が無視できないものだったようです。
そして寛弘8年(1011年)8月に昭登親王と共に元服。成人の証である冠をかぶせてくれたのは藤原実資でした。
同年10月に行われた三条天皇の即位式では、兄弟そろって左右の擬侍従を務めます(清仁親王が上位の左、昭登親王が右)。
長和5年(1016年)に行われた後一条天皇の即位式においては、清仁親王が右の侍従、昭登親王が左の侍従を務めました。この5年間に、兄弟間で立場の逆転があったのでしょうか。
やがて万寿元年(1024年)1月に弾正尹(だんじょうのかみ)となるも、4年後の長元元年(1028年)に出家。そして長元3年(1030年)7月6日に薨去されたのでした。
花山天皇の第二皇子・昭登親王長徳4年(998年)生~長元8年(1035年)4月14日没
基本的には異母兄の清仁親王と共に行動したようです。かぶる部分は割愛しましょう。
兵部卿(ひょうぶきょう)や中務卿(なかつかさきょう)と言った朝廷の重職を歴任しました。
変わったことと言えば、万寿4年(1029年)に四条油小路で火災が発生した際、延焼のせいか親王邸も焼失してしまいます。
兄の清仁親王とは違い出家はしておらず、兄を亡くして5年後の長元8年(1035年)4月14日、38歳で薨去されたのでした。
終わりに以上、花山天皇が母娘を同時に寵愛し、それぞれ生ませた皇子たちの生涯を駆け足でたどってきました。
なお清仁親王の子孫は白川伯王家としてその血脈を後代に受け継いでいます。
NHK大河ドラマ「光る君へ」には登場しないでしょうが、この世界のどこかで健気に生きていると思うと、ドラマ観賞もいっそう味わえるかも知れませんね。
※参考文献:
『尊卑分脉 第三篇』吉川弘文館、2001年3月トップ画像 中央:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
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