妾だけはイヤ!豪商の娘から一転して芸妓になり、渋沢栄一の後妻となった渋沢兼子とは?

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妾だけはイヤ!豪商の娘から一転して芸妓になり、渋沢栄一の後妻となった渋沢兼子とは?

2024年度から発行される一万円札の顔にも選ばれている渋沢栄一(しぶさわえいいち)。彼の生涯は近年の大河ドラマでも取り上げられ、話題を呼びました。

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「実業界の父」「日本資本主義の父」とも呼ばれる渋沢栄一は、最初の妻を亡くしたあと、伊藤兼子(結婚後、渋沢兼子に)と再婚。今回は、夫とともにさまざまな分野の第一線で活躍した渋沢兼子の生涯を追ってみたいと思います。

右端が兼子(Wikipediaより)

豪商の娘から芸妓に

伊藤兼子は、江戸の豪商・伊藤八兵衛の娘として生まれました。父は「江戸一番の大富豪」とまで呼ばれた人物。裕福な家に育った兼子は婿養子を取り、実家を継ぎます。しかし、父が明治になりアメリカ人と始めた共同事業で失敗すると、没落の道を歩みます。父は亡くなり、夫とも離縁しています。

何とか生きていくため、兼子は芸妓になり、そこで渋沢栄一との縁談がもちかけられます。それ以前にも他の男性との縁談はあったようですが、どれも妾という条件で、彼女は「妾だけは嫌だ」と断固拒否。当時渋沢栄一は最初の妻に先立たれており、後妻として兼子を迎えます。

華やかな渋沢の女性関係

渋沢栄一は最初の妻が生きていたころから女性関係は華やかだったといいます。

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当時の妾のひとり・大内くには兼子が嫁ぐ前に渋沢家を去っていますが、兼子との再婚後も他の女性との関係を持っていました。

先代の妻の子どもで、幼かった渋沢篤二(しぶさわとくじ)は兼子にあまり懐かず、大変だった時期もあるようです。

先代の子どもとともに、兼子は栄一とのあいだに9人の子どもをもうけ、育てます。そのうち4人が成人しました。

渋沢栄一の子どもたちはさまざまな分野で活躍しましたが、兼子とのあいだに生まれた子のひとり・渋沢武之助は石川島飛行機製作所の2代目社長になり、隼戦闘機など、陸軍の航空機を製造しました。

ルーズベルト大統領との会見も

兼子は公私ともに夫である渋沢栄一をサポートしました。夫婦でアメリカに渡った際にはルーズベルト大統領と会見したり、夫が団長を務めた「渡米実業団」の一員として同行もしています。

そのほか、鹿鳴館でのバザーといった慈善活動にも積極的に従事。さまざまな分野で活躍したことがわかります。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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