薩摩の謀略も何のその!15代将軍・徳川慶喜、大荒れのあの「四候会議」で記念撮影する余裕までカマす

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薩摩の謀略も何のその!15代将軍・徳川慶喜、大荒れのあの「四候会議」で記念撮影する余裕までカマす

怪物・徳川慶喜

幕末期の歴史を語る上で、徳川慶喜という人物が、一般的なイメージとは異なりどれほど有能な政治家だったかは強調してもし過ぎることはありません。

やはり有能だった将軍・徳川慶喜!第二次長州征伐が失敗しても江戸幕府が権威失墜を免れた理由

彼は朝廷も、反幕勢力も、各地の諸侯も、さらに海外勢力までも翻弄するほどの怪物的な手腕と力量を持っていました。

徳川慶喜(Wikipediaより)

幕末期は、討幕勢力によってなすすべなく徳川幕府が滅ぼされてしまった印象ですが、それは違います。実は徳川慶喜は何度も薩摩をやり込めており、丹念に史料を読み解いていくと、一体なぜ徳川慶喜という人物が最終的に倒されてしまったのか分からなくなってしまうほどです。

ここでは、1867年5月に開かれたいわゆる四候会議で、慶喜が薩摩に一泡吹かせたエピソードをご紹介しましょう。

第二次長州征伐に失敗した幕府は、いっときその権威が低下しました(その後の改革によって回復していますが)。その隙をついて、さらにこの会議で追い打ちをかけて幕府の力を削ごうと考えたのが薩摩藩だったのです。

四候会議と兵庫開港問題

さて、京で四候会議が開かれた時のことです。この会議は、列強から受けていた兵庫開港要求問題長州藩の処分を問うことを目的に開かれました。

兵庫開港要求問題とは、イギリス公使が幕府に対して兵庫の港を開港するよう求めていたもので、条件は①兵庫と大阪の即時開港②条約勅許③輸入関税改訂、の三つでした。

八月に長州藩へ報復攻撃していた四国連合艦隊は、報復のための遠征費などをあわせて巨額の賠償も要求していました。しかし兵庫開港の条件を呑めば、未払いの賠償金は放棄するとしていたのです。

イギリスとしては、幕府がこの問題を先延ばしにするなら朝廷と直談判するつもりでした。

この問題は、一度は慶喜が上手にあしらっています。彼は新将軍就任後、イギリスとフランスそれぞれの公使に、慶喜が全権掌握していることを告げました。一方で朝廷には、許しがなければ開国の布告はしない、と宣言します。見事な二枚舌でした。

結局、慶喜はフランスを味方につけてイギリスを一蹴。そこでイギリスは薩摩に接近し、兵庫開港問題を使って雄藩を焚き付け、幕府を追い詰めようと入れ知恵していました。

実際、薩摩はこの問題を利用して幕府に迫っているのですが、慶喜は「江戸や大坂ではなく、鹿児島と下関を開港すればいいんじゃない?」などと、完全にコケにしています。

かつての兵庫港(現・神戸港)

さて、四候会議に参加したのは島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城。今風に言えば「有識者会議」です。主催者は西郷隆盛たちで、先述の通り彼らはこの会議をリードすることで、幕府の権威をさらに弱体化させることを目論んでいました。

彼らが企んだのは、幕府ではなく朝廷が直接諸外国と条約を結ぶことでした。そうすれば幕府から外交権を事実上はく奪することができます。また、長州藩に寛大な処分を下すことができれば、雄藩による連合政権樹立にもつなげられるでしょう。

会議が始まる前から、大久保利通は調停工作に奔走していました。また、4月12日に入京した島津久光は、慶喜の将軍職はく奪を朝廷に対して進言しています(大久保の入れ知恵)。しかし相手にされませんでした。

余裕の記念撮影

この会議は、完全に慶喜のペースで進められました。四候は、有識者とはいえ非主流派です。彼らは会議のさなかに慶喜の演説に圧倒され、さらに議論を始めてもとても慶喜には敵わず完全に言い負かされてしまいます。

「四候」たち。左から島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城(Wikipediaより)

まず兵庫開港問題は、慶喜が粘り強い交渉によって朝廷から勅許を取得します。また、長州藩の処分についても、問題は棚上げ状態になりました。

で、慶喜が余裕の程を見せつけた極めつけは記念撮影です。四候会議の参加者は、上記の議論が全て終わったあと慶喜によって饗応を受け、集合写真まで撮ったのです。

四候会議は、誰にとっても何の成果もなく、ただ慶喜が政治家としての手腕を見せつけるだけで終わったのでした。彼にとっては、この会議を乗り切ることなど余裕だったのです。

薩摩藩の目論見は完全に潰されました。しかも皮肉なことに、この会議によってかえって慶喜の政治家としての有能さが示される結果になったのでした。

もちろん、その後も幕府にとって有利な展開が続いたわけではありません。

そもそも、薩摩藩は最初から討幕方針を掲げていたわけではなく、あくまでも徳川を含めた連合政権樹立を目標としていました。しかし慶喜が有能すぎたため、この目標を放棄せざるを得なくなったのです。

こうして追い詰められてしまった薩摩藩では、反対に「もはや武力討幕しか、薩摩藩の主導権を保持する道はない」という意見が優勢となりました。薩摩はだんだん破れかぶれ、成功を度外視したやり方で工作を進めていくようになったのです。

歴史の流れを言えば、慶喜が有能だったがゆえに薩摩藩はクーデターに及べず、その代わりに討幕に至ったと言えるでしょう。幕府と慶喜にとっては皮肉な結果でした。薩摩藩もまた、それだけ追い詰められていたのです。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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