初登頂と思ったのになんと平安時代に登ってた!日本山岳史の謎「剱岳山頂に錫杖と剣の遺物」

Japaaan

初登頂と思ったのになんと平安時代に登ってた!日本山岳史の謎「剱岳山頂に錫杖と剣の遺物」

日本人初と思ったのに、先人が既に登っていた…!

その険しさゆえに明治時代に入っても人跡未踏といわれた剱岳(つるぎだけ)。北アルプスの槍ヶ岳、穂高連邦などと並び、登山者の憧れの山の一つです。

初登頂を目指して、明治40年、日本陸軍陸地測量部の柴崎芳太郎率いるチームが国の命を受け、様々な苦労を重ねながらようやく頂への道を切り開きました。この話は小説や映画の「剱岳 点の記」で有名です(2年前にも登頂した者がありましたが、この山行が明確な記録に残る初登頂して扱われています)。

…が、しかし! なんと山頂にはいつの物かわからぬ「錫杖頭」と「鉄剣」があったのです。

修験者や仏僧の持ち物であることは明白で、下山後の調査で、なんと平安時代の物だと判明。現在でも、いつ、誰が、どのようにして登ったのか判明しないままです。

柴崎芳太郎「越中剣岳先登記」には、 こう記されています。

かくて漸ようやく絶頂に達しましたのは、午前十一時頃でありました、(中略)一行がこの絶頂に於て非常に驚いたのは古来いまだかつて人間の入りし事のないこの山の巓に多年風雨に曝され何ともいえぬ古色を帯びた錫杖の頭と長さ八寸一分、幅六分、厚三分の鏃(やじり)とを発見したことである。(中略)この二品は一尺五寸ばかり隔へだててありましたが、何時の時代、如何なる人が遺のこして去りしものか、槍の持主と錫杖の持主とは同一の人かもし違って居るとすれば同時代に登りしものか、別時代に登りしものか、これらはすこぶる趣味ある問題で、もし更に進んで何故なにゆえにこれらの品物を遺留し去りしか、別に遺留し去ったものでなく、風雨の変に逢うて死んだものとすれば遺骸、少くも骨の一片位はなくてはならんはずだが、品物はそのまま其処に身体は何処か渓間へでも吹飛されたものか、この秘密は恐おそらくは誰だれも解とくものはあるまい、」

「錫杖と槍の持ち主と同一人物なのか、違うなら同時代に登ったのか、また別の時代に登ったのか。わざと置いていったのか、ここで亡くなったために(物が)残ったのか、亡くなったのであれば骨があるはずだが、吹き飛ばされたのか、この謎は誰も解けまい」と書いています。その当時の興奮が伝わるようです。

発見された遺物(『山岳』3年3号(明冶41年10月発行)

奉納されたのか、持ち主が死亡したのか? 錫杖頭と鉄剣は両品とも同じ方向で置かれており、錫杖に通常懸けられているはずの輪が一つもないことから、現在では奉納する意図があったと推測されています。

立山山域にある大日岳頂上近くにも行者窟というのがあり、そこにも平安時代の錫杖の頭部のみが発見されています。

通常の錫杖。輪が付いています

地獄の剱岳には空海も登れなかった?

剣岳を含めて立山室堂は、立山信仰が栄えた場所。
『立山開山縁起』によると、飛鳥時代から奈良時代にかけて生きた佐伯有頼(さえきのありより)という者が霊示を受けて開山。越中国司の父を持つ有頼は、鷹と熊に化けた不動明王と阿弥陀如来の導きで立山室堂を発見しました。

立山室堂の全景

阿弥陀如来は、「乱れた世を救おうと、ずっと前からこの山でお前を待っていた。この山を開き、鎮護国家、衆生済度の霊山を築け」と告げ、立山は開山されて広く認知されていきます。立山は「あの世」と称され、「立山曼荼羅」には地獄と極楽が描かれました。その中で、地獄の険しい針山として描かれているのが「剱岳」です。

立山曼荼羅、一番左端上が剱岳(国立国会図書館より)

同じ平安時代の空海(弘法大師)が草鞋千足を費やしても登頂できなかった、という伝説があるほどです。空海と同時代の僧が、登山道も装備も道具も貧者な時代に、どのルートからどのように登ったのでしょうか。

西が早月尾根、下の前劔含む北へのルートが別山尾根(Google earthより)

実際に剣岳に登ったことのある筆者が、推測します。

剱沢から剱岳をのぞむ

一服剱から剱岳をのぞむ

難所が続く

かにの横這い

剱岳山頂(フォトACより)

立山からの別山尾根

現在、立山室堂から剱岳に至るメインルート。一度剣沢という平地に下り、ここから「かにの横ばい、かにの縦ばい」など、数々の岩の絶壁を越えなければならなりません。

現在は鎖や鉄杭など足がかりがありますが、柴崎隊も別山尾根を諦めて長次郎谷(ちょうじろうたん)の雪渓を登り詰めたことから、容易ではありません。

剣沢から剱岳への往復は、筆者は7時間かかりました。一服剱や前劔と呼ばれる、一晩横たわることのできる平たい場所はあるにはありますが、夜露をしのげる岩屋はありませんでした。

北アルプス三大急登の早月尾根

早月尾根は山頂直下にでるまで、別山尾根ほどの難所や岩場の登下降はありません。ただこの尾根は現在「北アルプス三大急登」と呼ばれており、片道のコースタイムは9時間かかることもあり、稜線上は途中で水を汲める場所がありません。

ただ最初から尾根を登らずとも、立山川という川を遡って登り上げてから尾根に合流するという手もあります。その登り地点は「ハゲマンザイ」という場所なのでは?という仮説もありますが、そのハゲマンザイは現在の登山地図には載っていません。

利点としては水をたっぷり汲んでから登ることができるという点ですね。

また、どの季節に登ったかも重要です。残雪期(3、4月)であれば稜線上でも雪を溶かして水を作ることはできますし、夏であれば雪解け水は豊富です。ただ残雪期は雪崩や雪の踏み抜きの危険性があります。

夏は稜線上には水はなく、下からの携行をどうするかという問題があります。現在はたくさん水を携行する道具がありますが、平安時代はどうでしょうか。動物の革袋や竹筒では限度があったことでしょう。

また、夏は食糧が傷みやすいというデメリットもあります。春も夏もそれぞれの危険性がありますね。

結局どちらのルートも難しいですが、富山県側の方に岩峅寺や芦峅寺をはじめとした信仰登山の拠点があったこと、滑落の危険性がないことから、筆者は「早月尾根」側から入った可能性が高いのでは、と感じました。

他にもたくさんルートがありますが、雪渓を越えるなど難所があり現実的ではない気がしました。

名も無き登山者は、現代人よりも、自然に熟知した人物でかつ健脚だったのでしょう。人間の力に感嘆するとともに、現代人に果たしてそれだけの生きる力があるのか?考えさせられました。

参考:「剣岳信仰」をめぐる若干の考察(米原寛、2008年)
写真:山の写真はフォトAC以外はすべて筆者撮影

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「初登頂と思ったのになんと平安時代に登ってた!日本山岳史の謎「剱岳山頂に錫杖と剣の遺物」」のページです。デイリーニュースオンラインは、立山室堂立山信仰山岳史剣岳平安時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る