皇族にして朝敵!幕末期、最後まで幕府側に「義」を貫いた北白川宮能久親王の波乱の人生

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皇族にして朝敵!幕末期、最後まで幕府側に「義」を貫いた北白川宮能久親王の波乱の人生

薩長側についた朝廷

幕末期、徳川幕府は雄藩を抑えてその権力・権威を取り戻す必要に迫られました。外圧にさらされ、さらに第二次長州征伐に失敗したあたりでは、このあたりの必要性は切実なものだったと言えるでしょう。

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そのために必要なのは、幕府と朝廷・天皇がしっかり結びつくことでした。そのため、幕府は公武合体政策を推し進めています。

しかし歴史の結果を見ると、朝廷の公家たちが最後に支持したのは尊王攘夷を掲げる薩長でした。

公家たちは、全員が全員、最初から薩長に賛同していたわけではありません。確かに薩長は天皇と中心とした政治体制の確立を目指していましたが、中には懐疑的な人もいました。

しかしそうした人たちも、三条実美岩倉具視などの説得と雄藩の圧力によって引き込まれていきます。

護国寺にある三条実美の墓

実際には「天皇中心の政治体制」というのは建前で、あくまでも薩長(土肥)が目指したのは天皇の権威を利用した中央集権体制を構築することでした。

こういった経緯があるため、あたかも当時の公家や皇族たちは、全員が討幕に向けて一致団結したと思われがちです。しかし、そうではありませんでした。

輪王寺宮・北白川宮能久

朝廷の中には、討幕運動に加わらず、幕府の味方についた皇族もいました。それは輪王寺宮(りんのうじのみや)です。

輪王寺宮は役職名で、徳川家の菩提寺である寛永寺に居住しつつ、比叡山の延暦寺と日光山輪王寺の管理もしていました。

この通り、徳川家の菩提寺に住んでいたため幕府からも手厚く遇されており、もともと幕府寄りの立場だったのです。

そして、幕末期に徳川幕府の側についたのが、最後の輪王寺宮である北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王でした。

北白川宮能久親王(1890年頃・Wikipediaより)

彼が輪王寺宮になったのは1867年。その翌年には、鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜を訪ねています。そして、徳川家の存続を嘆願する嘆願書を、東征大総督だった有栖川宮熾仁親王に渡しました。しかしこれは拒絶されます。

その後も、能久親王は帰還せず上野に駐留します。その理由は、皇族が不在になると上野は戦場になる可能性があり、旧幕臣や豪農・豪商たちが嘆願書を出したためとも言われています。

しかし、結局このあたりも戦場となりました。能久親王も、幕府の残党で結成された彰義隊を助けますが、最後は江戸を追われることになります。

奥羽越列藩同盟、そして…

ここからが、この能久親王のすごいところです。彼は幕府の海軍に拾われて、翌月には会津若松へと逃げ延びました。そして、東北諸藩が新政府軍に対抗して同盟を組んだ奥羽越列藩同盟の盟主となったのです。

鳥羽伏見の戦いでは錦の御旗を掲げた新政府軍に敵対したわけですから、皇族にして朝敵・逆賊ということになります。それでも能久親王は本気でした。江戸にいた側近たちに、「速に仏敵朝敵退治せんと欲す」などという書き置きまで残していたのです。

しかし、奥羽越列藩同盟がうまくいかなかったのはご承知の通り。結局、能久親王は新政府軍に降参します。

下手な幕臣などよりずっと「義」に生き、戦地に身を投じた能久親王でしたが、彼の役目はここまででした。

その後は京都で一年間の謹慎処分となり、復帰した後は日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として、1895年に台湾へ出征します。

しかし現地で病に倒れ、帰国療養を勧められますがこれを断り、40度の熱と戦いながら台南の決戦場に赴きます。が、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去しました。

千代田区・北の丸公園にある北白川宮能久親王像

皇族としては初めての外地における殉職者となった能久親王の遺体は本土に運ばれ、国葬に付されています。

当初は「病気で帰国した」と発表されましたが、日本到着後に陸軍大将への昇進が発表され、これとあわせて薨去が告示されるという流れでした。

一時期は台湾の神社でも主祭神として祀られましたが、現在は靖国神社で祀られています。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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