伊藤博文よりも「初代宰相」にふさわしい?明治初期の政治家・三条実美は隠れた大物政治家だった

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伊藤博文よりも「初代宰相」にふさわしい?明治初期の政治家・三条実美は隠れた大物政治家だった

「空白の18年間」の宰相は?

幕末から明治期にかけての重要人物を挙げよ、と言われたら、皆さんは誰が思い浮かぶでしょう? 徳川慶喜、大久保利通、西郷隆盛、伊藤博文……。おそらくさまざまな名前が出てくると思います。

実は、おそらくほとんど誰もが名前を挙げないと思われる人物で、「忘れられた最重要人物」がいます。もちろんそういう人も細かく取り上げればたくさんいるのですが、ここでご紹介したいのは三条実美(さんじょう・さねとみ)という人物です。

三条実美(Wikipediaより)

そもそもの疑問として、近代日本の歴代宰相について考える場合、初代は伊藤博文ということで本当に合っているのか、というのがあります。

確かに、伊藤博文は「初代内閣総理大臣」です。しかし総理大臣の職が設けられたのは明治18年のこと。王政復古の大号令によって明治新政府が発足してからの18年間、総理大臣にあたる「宰相」は誰もいなかったのか? と疑問があってもおかしくはありません。

「宰相」とはもともとは中国の言葉で、天子を助けて政治を行った官のことを言います。

よって考え方としては、職名が内閣総理大臣ではなくとも、王政復古以降の18年間、明治政府の最高権威だった明治天皇の下で政治を執り行ったのは誰だったのか、という話になります。

そんな話の中で見逃すことのできない重要人物が、公家出身の三条実美なのです。

新体制の中の三条と岩倉

大政奉還から王政復古までは二か月間の空きがありましたが、まだこの時明治新政府は体制が整っていませんでした。実質、まだ江戸幕府が政府として機能していたのです。

この時期、政治の中心的存在だったのはもちろん天皇であり、その下には摂政の二条斉敬、征夷大将軍の徳川慶喜、老中筆頭の板倉勝静がいるという構図でした。この時、誰が「宰相」だったのかは何とも言えません。

そして1867年12月9日に王政復古の大号令が出て、新政府が発足します。これに伴い摂関・将軍の職は廃止となり、かわりに総裁・議定・参与の三つの職が設けられました。

このうち、総裁に任命されたのは有栖川宮熾仁(ありすがわみやたるひと)親王です。議定は10名、参与は20名が任命されました。

熾仁親王は、かつて皇女和宮の許嫁でもあり、鳥羽・伏見の戦いでは東征大総督も務めた人物です。彼は総裁として、将軍と摂政の権限を引き継いだ形になったのでした。おそらく彼こそが、近代日本で初の宰相だと言っていいでしょう。

有栖川宮記念公園の有栖川宮熾仁親王の銅像

この時に副総裁だったのが、三条実美と岩倉具視です。

そういえば岩倉具視も、幕末期のビッグネームでありながら、明治時代以降は政治家として何をやったのかあまり知られていないところがありますね。実は彼は、新政府発足直後のこの段階で政府の役職に就いていたのです。

後述しますが、明治新政府発足直後は、薩長はほとんど政府内で権力を持っていませんでした。むしろ政府内で政治を取り仕切ったのは、岩倉や三条を始めとする公家出身の政治家たちだったのです。

決して「無能」ではなかった三条

さて、熾仁親王を総裁とする体制は、1868年には早くも廃止。三条と岩倉の二人は、公職の最高位である「輔相」となりました。この職は、諸大臣の上に立ち、天子を助けて政治を行うという立場です。

そして翌年の明治2年7月8日には太政官制が成立し、右大臣に三条が、大納言に岩倉(と徳大寺実則)が就任して参議を束ねることになりました。

さらに明治4年には、三条は太政大臣となります。明治18年に内閣が発足するまでの間、彼はなんと14年間もその職に就いていました。

つまり彼は、安定しない体制の中で肩書はくるくる変わったものの、内閣成立までの18年間もの間、天皇直属の「宰相」として政府の最高責任者を務めたのです。

三条実美の墓がある護国寺

もともと三条実美は、五摂家ではないものの同レベルである西園寺家と同じランクの三条家の出身。幕末期は過激な尊王攘夷思想の持ち主でした。

一度は政変で敗れて長州・大宰府へと落ちたこともありましたが、王政復古で赦されて京へ復帰したという経歴の持ち主です。彼の復権を主導したのが岩倉具視で、二人は二人三脚で政府を支え続けたのでした。

ただ、政府内で征韓論による対立が激しくなった際はノイローゼで倒れ、最終的な決断を岩倉に丸投げするなどしたため、無能呼ばわりされることも多い人物です。

岩倉具視が有能すぎたためこうした評価になってしまう面もあるでしょう。しかし明治維新直後は、実は薩長ではなく公家勢力や諸侯たちなどが政治の実権を握っていました。その中で、18年も天皇をサポートし続けた三条の力量は軽視されるべきではありません。

例えば、東京遷都は大久保利通によるものだというデマがありますが、あれは司馬遼太郎の作り話です。「朝廷は江戸に置いた方が日本は安定する」と考えて決定したのは三条実美です。

参考資料:
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年・PHP新書

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