まさに母親ゆずり!清少納言の娘・小馬命婦が娘を守るため詠んだ怒りの和歌がコチラ【光る君へ】
まひろ(紫式部)のライバルとして現れた「もう一人の才女」ききょう(清少納言)。彼女には二人の子供がいました。
一人は先夫・橘則光(のりみつ)との間にもうけた橘則長(のりなが)、もう一人は後夫・藤原棟世(むねよ)との間にもうけた小馬命婦(こまのみょうぶ)です。
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「光る君へ」の清少納言(ききょう)実はすでに人妻で子供もいた!息子・橘則長はどんな人物?その生涯をたどる今回はこちらの小馬命婦について紹介したいと思います。果たして彼女はどんな女性だったのでしょうか。
「コマちゃん」「仔馬ちゃん」と親しまれていた?小馬命婦は生没年不詳、成長して藤原彰子(しょうし。一条天皇の中宮)に仕えました。
幼名を狛(こま)といったそうで、だから同じ音の小馬が当てられたのですね。ちなみに命婦とは中級程度の女官を指します。
なお、小馬命婦という女房名の女性が円融天皇の時代にいたため、区別するために彰子の院号を冠して上東門院小馬命婦(じょうとうもんいん~)と呼ばれるのが一般的です。
恐らく、先にいた小馬命婦と通じるところがあったので、彼女にあやからせようとそう呼ばれたのでしょうね。
彰子と言えば紫式部も女房として仕えており、『紫式部日記』にも「こむま」「こまのおもと」などの名前で登場しています。
「こむま」は「こうま(仔馬)」、「こまのおもと」は「コマちゃん」といったニュアンスです。
その可愛らしい響きから、みんなから親しまれていたことが察せられますね。紫式部も、彼女と仲良くしていたのでしょうか。
ただし「こむま」等は高階道順(たかしな みちのぶ)の娘とされており、別人説もあるとか。
あるいは、幼くして父・藤原棟世を亡くしているため高階道順の養女になったとする説もあるようです。
「帰れ!」母親として、怒りの返歌果たして小馬命婦がいつまで彰子に仕えたのか、その後どうなったのかについて、詳しいことは分かっていません。
しかし娘が一人いたことが分かっており、母親としてこんなエピソードが伝わっていました。
娘は高階為家(ためいえ)と結婚したものの、激しい口論のすえ疎遠になってしまいます。
ちなみに高階為家は紫式部の孫。紫式部の一人娘・大弐三位(だいにのさんみ)が生んだ息子です。
それはともかく、時が経って為家は、妻が惜しくなったのでしょう。
みあれの日暮れ(上賀茂神社の葵祭・あおいまつり)に託けて、葵の枝を持って妻の元を訪ねました。
「せっかくの葵祭なのだから、私たちも再び逢おう。いいだろう?」
と言ったかどうか、もうちょっと気の利いたメッセージを和歌に詠んで贈ったものと思います。
しかし妻が返歌を詠むより先に、小馬命婦が為家に一首詠んで寄越しました。
その色の 草とも見えず 枯れにしを
いかに言ひてか 今日はかくべき※『後拾遺和歌集』第908番
【意訳】あなたが持ってきた葵の葉は、あまりに枯れしなびて葵だと分かりませんでした。今日は何をしに来られたのですか?枯葉しか持って来なかった言い訳ですか?
……手厳しいを通り越して、うんざりしますね。しかし、仕方ありません。
母親から皮肉の一つも言ってやらねば気がすまないほど、為家が妻にひどいことをしたのでしょう。
普通なら、脈なしであれば返歌も何も寄越さないのが普通です。それをあえて本人に代わって詠むなんてよほどのこと。
「ウチの娘にあれだけひどいことをしておきながら、今さら復縁したいだなんて、どの口が言えた義理ですか!」
母親として、抑えがたい怒りが噴き出さんばかり。この代筆返歌を受け取った為家は、弁明の余地なく引き返したことでしょう。
葵祭には一人で行ったのか、それとも他の女性と行ったのか、気になるところですね。
終わりに為家朝臣、物言ひける女にかれがれに成りて後、みあれの日暮にはと言ひて、葵をおこせて侍ければ、娘に代はりて詠み侍りける 小馬命婦 その色の 草ともみえず 枯れにしを いかに言ひてか 今日はかくべき
※『後拾遺和歌集』第908番
以上、清少納言の娘・小馬命婦について紹介してきました。可愛らしい仔馬ちゃんかと思いきや、さすがに母親ゆずりの気丈さでした。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、彼女の出番があるでしょうか。まひろ(紫式部)との共演が楽しみですね!
※参考文献:
萩谷朴『紫式部の蛇足 貫之の勇み足』新潮社、2000年3月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan