本当は別の名前だった!?「紫式部」という女房名にまつわる”違和感”に気づきますか?【光る君へ】

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本当は別の名前だった!?「紫式部」という女房名にまつわる”違和感”に気づきますか?【光る君へ】

時は寛弘2年(1006年)12月(翌年同月説もあり)。

夫・藤原宣孝(のぶたか)と死別して5年以上の歳月が流れ、紫式部(むらさきしきぶ)は藤原彰子(しょうし/あきこ。一条天皇の中宮)の女房として出仕しました。

紫式部という呼び名は本名ではなく、いわゆる女房名(にょうぼうな。いわゆるビジネスネーム)であることはよく知られていると思います。

紫とは、彼女の代表作『源氏物語』のメインヒロイン・紫上(むらさきのうえ)から。

ちなみに『源氏物語』がヒットする前は、藤原氏であることから藤式部(とうのしきぶ)と呼ばれていました。

そして式部とは、父・藤原為時(ためとき)の官職である式部丞(しきぶのじょう)からとったと言われています。

だから人呼んで紫式部。平安時代を代表する女流作家として、後世にその名を轟かせるのでした。

が、ここで一つ違和感を覚えます。なぜ彼女は紫式部と名づけられたのでしょうか。ちょっと変ではないでしょうか?

何が変なのか?そこから何が分かる(推測される)のか?今回は紫式部の女房名について、その謎を考察したいと思います。

出仕当時、父と夫の官職は……

国立文化財機構 蔵「紫式部図」

紫式部が出仕したのは寛弘2年(1006年)12月と言いました。

この時点で、父親の藤原為時は式部丞ではなく、越前守(えちぜんのかみ。国司長官)です。

なので、父親の官職から女房名をつけるのであれば、藤越前(とうのえちぜん)などとつけるのが妥当ではないでしょうか。

ちなみに亡き夫・藤原宣孝(右衛門権佐・山城守)から官職をとるなら、藤山城(とうのやましろ)あるいは藤右衛門(とうのゑもん)となりそうです。

なぜ父親の、しかも古い官職が女房名に使われたのか?

それはもしかしたら、寛弘2年(1006年)以前から既に出仕していたからのかも知れない。そんな説があると言います。

時をさかのぼること19年、永延元年(987年)に藤原道長(みちなが)と源倫子(りんし/ともこ)が結婚する時に、紫式部は倫子付きの女房として出仕していたとか。

永延元年(987年)時点であれば、確かに父・為時は(元)式部丞です。だから、藤式部で何もおかしくありません。

『今鏡』などには紫式部が源倫子に仕えていたことが記されており、この説を裏づけます。

また『紫式部日記』の記述から、彰子に仕えていた時点で、どうもキャリアがありそうです。

もしかしたら、以前に仕えていた紫式部が10数年ぶりに現場?復帰したから昔の女房名で呼ばれたのかも知れませんね。

終わりに

以上、紫式部の女房名から、通説よりも早い時期から出仕していた説について紹介しました。

果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、この説が採用されるでしょうか。

道長と倫子の結婚を、女房として見届けなければならない”まひろ(紫式部)”の心中……ドラマ的に盛り上がりそうです。

果たして実際はどうだったのか、今後の究明がまたれますね!

※参考文献:

角田文衛『紫式部とその時代』角川書店、1966年1月

トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより

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