3月4日はミシンの日!日本にミシンを伝えたのはなんとペリー提督率いる黒船だった!? (2/2ページ)
ラウジー商会の関清吉や、ブラウン夫人に雇われた沢野辰五郎などです。二人とも、洋裁師をする前は、足袋職人だったようです。
1868年、2月24日付の「中外新聞」創刊号には、開成所が出した広告が掲載されています。それによると、当時「シウインマシネ」(ソーイングマシン)と呼ばれたミシンの使用法を習いたい希望者を募集したものでした。
1900年6月頃になると、それまで主流だったウィルソン社の手回し式のものに代わって、同じくアメリカのアイザック・シンガーが改良したシンガー・ミシンが日本にも初輸入されるようになります。
一方、国産のミシンが登場するのは、1881年のこと。第2回内国勧業博覧会において、左口鉄三という人物が製作した環縫いミシンが出品されました。ところが、これは綾縫いという飾り縫いの一種をするもので、普通の縫物用ミシンが製造されるようになるのは、1920年代まで待たなければなりません。
1921年1月、小瀬与作、飛松謹一、亀松茂の3人が、パイン裁縫機械製作所をおこし、小型ミシンの「パイン53型」を製造しました。
ところが、この本縫いミシンは、1929年にようやく完成し、後の蛇の目ミシンへと発展していくことになるのです。
日本製のミシンは、品質ではアメリカ製に及ばなかったので、生産台数は輸入台数よりもずっと低かったのですが、第二次世界大戦でアメリカからの輸入がストップすると、国内の生産台数は伸び、中国や東南アジアにも輸出されました。
敗戦後は、家庭用ミシンの標準図面が作られるようになり、規格に合わせた部品の生産も行われるようになったことにより、ミシン産業が飛躍的に拡大したのでした。1950~60年代にかけて、ミシンは、嫁入り道具の一つとして、次第に必要不可欠なものになっていくのです。
参考
アンドルー・ゴードン(著), 大島 かおり(訳)『ミシンと日本の近代―― 消費者の創出』(2013 みすず書房)
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