甲冑をまとい薙刀で奮戦!戦国時代、城主不在の城を10日間守り抜いた女傑・市川局を紹介!

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甲冑をまとい薙刀で奮戦!戦国時代、城主不在の城を10日間守り抜いた女傑・市川局を紹介!

以前、城主不在の中で城主の代わりに敵軍と戦い抜いた女傑・妙林尼をご紹介しました。

守るために戦いを選んだ!非戦闘員と共に敵軍を16回退けた女性「妙林尼(みょうりんに)」の決死の戦い

実は妙林尼のように城主の代わりに敵軍と戦った女性が戦国時代にもう1人いました

その人物は市川局(いちかわのつぼね)で、毛利氏家臣・市川経好(つねよし)の妻です。

今回は、そんな市川局の活躍や夫の市川経好についてもご紹介します。

吉川氏をルーツにもつ市川局

吉川元春/Wikipediaより

市川局は生年は不明ですが、父は宮庄基友(みやのしょう-もととも)もしくは石経守と言われています。

両者共に吉川氏一門の人間なので、市川局は吉川氏にルーツを持っていることがわかります

また、夫の経好も吉川氏の一門をルーツに持つ人物。

父は吉川経世で、父と共に従兄で吉川氏14代目当主だった吉川興経(おきつね)に不満を表し、毛利元就の次男である元春を吉川氏の時期当主にする計画に加担しました。

夫の経好が高嶺城の城主となる

毛利元就/Wikipediaより

経好は元春を吉川氏の当主にすえた活躍によって安芸国市川邑(現在の広島県広島市安佐北区)を拝領されますが、興経に対する罪悪感があったのか蟄居。やがて元就の求めに応じて仕えました。

その時に市川邑の名前から吉川より市川へ変えています

その後の弘治3年(1557)には行政に関する能力が認められ、山口奉行に就任しました。

その際に、元就が大内氏を滅亡させた防長経略後に手に入れた周防国山口(現在の山口県山口市)にある高嶺城の城主となりました。

城主不在の中、必死の抵抗で城を守る

大友宗麟/Wikipediaより

永禄12年(1569)、毛利軍と大友軍の間で筑前国(現在の福岡県西部)にある立花山城を巡る戦い・多々良浜の戦いが勃発すると、大友宗麟は客将となっていた大内氏の生き残り・大内輝弘(てるひろ)に2000人の兵を与えます。

大内氏再興の契機と考えた輝弘は、大内氏の旧臣たちを巻き込んで6000人に兵数が増大します。そして、輝弘は手始めに山口に侵攻し、高嶺城の攻略を開始しました

高嶺城の城主だった経好は多々良浜の戦いに従軍しており、城内には内藤就藤(なりふじ)や粟屋元種の家臣や数百人しかいない兵しか残っておりませんでした

この状況下で市川局は、鎧と薙刀を着用し、城内の兵を鼓舞

守りに不向きな構造でありながら、自らで指揮をとりながら奮戦し、救援部隊の吉川元春が向かって来るまでの10日間余りの激戦を耐え抜きました

比類なしの女傑・市川局

毛利輝元/Wikipediaより

高嶺城を攻略できなかったことと救援部隊の到着で次第に劣勢となった輝弘は、100人に兵数が減りながらも果敢に戦った後に、自刃を選びました。

この戦いは大内輝弘の乱と呼ばれており、大内氏が名実ともに滅亡した戦いとして知られています

また、天正5年(1577)にこの戦いの功績として市川局は、毛利輝元より「比類なし」と称された後に感状を与えられています

その後、天正12年(1584)に亡くなった経好の後を追うように、天正13年(1585)の3月6日に亡くなりました。

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