維新の志士たちもこぞって写真撮影!幕末は日本の写真文化の夜明け

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維新の志士たちもこぞって写真撮影!幕末は日本の写真文化の夜明け

1862年(文久二年)、長崎で日本初の営業写真館が開かれました。この写真館は評判を呼び、維新の志士たちが肖像写真を撮らせるために訪れました。薩摩藩主・島津斉彬も西洋の技術に興味を持ち、積極的に取り入れようとしていました。

島津斉彬(Wikipediaより)

その中でも特に、写真術に興味を持ち、配下の上野俊之丞に写真術の習得を命じました。その結果、俊之丞は藩主の肖像写真撮影に見事に成功したのでした。後に、彼の息子・上野彦馬が開いた上野撮影局が、先述の日本初の写真館です。

上野彦馬(wikipediaより)

彦馬はオランダの海軍医・ポンぺから化学と写真術を学んだのも、父親・俊之丞の影響だったと想像できます。彦馬は、写真館にやってくる客の肖像写真だけでは飽き足らず、1877(明治十)年に西南戦争がおきると、その様子を撮影しようと現地に赴いたのです。いまでいう“従軍カメラマン”のはしりです。

現地では、西南戦争の激しい様子を撮影し、なかでも、砲火の瓜痕も生々しい田原坂を写した一枚は、彦馬の名を不朽ならしめています。

一方で、下岡蓮杖(しもおかれんじょう)の方は、最初画家を目指して活動していたようです。ところが、偶然見た銀板写真に感銘を受け、事物をそっくり写すには、絵画より写真だと、画家を辞めて下田に行き、タウンゼント・ハリス領事の通訳・ヒュースケンから写真技術を学び、さらにジョン・ウィルソンからも写真機を譲ってもらったりなどしました。

下岡蓮杖 (wikipediaより)

蓮杖が写真館を開いたのは、横浜の野毛で、1867(慶応三)年の末のことでした。彼の写真は外国人客に大変な評判で、一か月に二百五十両も稼いだとの話も伝わっています。

彦馬が西南戦争を撮影したのに比し、蓮杖は1872(明治五)年、新橋駅で行われた鉄道開通式を撮影しました。選んだ被写体が、二人の特徴をよく表しています。

下岡蓮杖が撮影した武州忍藩士・吉田庸徳(Wikipediaより)

新しいこと・華やかなことが好きだった蓮杖は、ガス灯を作ったり、東京=横浜間に乗合馬車屋を営業したり、石版印刷業を行ってみたりと、多才ぶりを発揮しています。

さらに、鵜飼玉川という人物を、日本初の職業写真師とする説があります。それによると、彼は1860(万延元)年に、横浜で写真館を開いていたアメリカ人・フリーマンから、機材と事業の全てを譲り受け、江戸で開業したということです。

上野彦馬が、日本で初めての写真館を建てたとき、坂本龍馬をはじめ、高杉晋作や伊藤博文といった維新の志士たちが、競うようにここを訪れて、肖像写真を撮らせていたことが残された写真からわかります。

“インスタ映え”なんていう言葉もなかった幕末に、こぞって写真を撮りに来た侍たちが、スマホで簡単に写真が撮れる今の時代にタイムスリップしたら、さぞ驚くでしょうね。

参考

長野 重一(他)「 別巻日本の写真家」『日本写真史概説』(1911 岩波書店) 西村智弘『日本芸術写真史』 (2008 美学出版)

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