報復・見せしめに遺体を野ざらし!?幕末期の会津戦争における残虐行為の真相を検証する【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

薩摩・長州からなる新政府(実際には、初期の明治政府では両藩の力はさほど強くなかったのですが)は、会津に対しては禁門の変以来の恨みがあったかも知れません。

しかし上記のようなとても現実的な理由から、彼らは大量の会津兵の遺体を埋葬していったのです。

上野戦争では「遺体放置」があった

ただ新政府も、かつて、「戦死者の遺体の埋葬禁止」という非人道的な禁止令を出したことがありました。ただそれは、会津戦争ではなく上野戦争の時のことです。

上野戦争では、軍師の大村益次郎が彰義隊をはじめとする旧幕府軍を追い詰めています。この時、幕府側には200名ほどの死者が出ていますが、この遺体を埋葬することは禁止され、放置されました。

大村益次郎の銅像

ただこれも、見せしめや報復のためという意味合いのものではなく、遺体を回収しに来る旧幕府側の支援者を捕まえるためだったと言われています。

最終的にこれらの遺体は、数日後には上野寛永寺の御用商人・三河屋幸三郎が、政府から許可を得て円通寺へ埋葬されています。

なぜ「放置説」が定説になったのか

こうして見ていくと、当時の新政府が、見せしめや報復などの理由から、敗れた敵兵の遺体をあえて野ざらしにしたことはなかったと言えそうです。

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