報復・見せしめに遺体を野ざらし!?幕末期の会津戦争における残虐行為の真相を検証する【後編】

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報復・見せしめに遺体を野ざらし!?幕末期の会津戦争における残虐行為の真相を検証する【後編】

埋葬を進めていった現実的な理由

【前編】では、会津戦争で生じた会津兵たちの遺体は、これまでの定説のように放置されていたのではなく、実際には新政府によって迅速に埋葬のための手続きが進められていたことを説明しました。

報復・見せしめに遺体を野ざらし!?幕末期の会津戦争における残虐行為の真相を検証する【前編】

月岡芳年による会津戦争の錦絵(Wikipediaより)

では、明治新政府は敵であるはずの会津兵の遺体をなぜ積極的に埋葬したのでしょうか。

この理由は単純で、遺体を放置すれば衛生上の問題があるからです。当たり前のことですが、人間の遺体を放置すれば、腐敗して伝染病のもととなります。そうなると新政府による統治もスムーズにいかなくなるかも知れません。

薩摩・長州からなる新政府(実際には、初期の明治政府では両藩の力はさほど強くなかったのですが)は、会津に対しては禁門の変以来の恨みがあったかも知れません。

しかし上記のようなとても現実的な理由から、彼らは大量の会津兵の遺体を埋葬していったのです。

上野戦争では「遺体放置」があった

ただ新政府も、かつて、「戦死者の遺体の埋葬禁止」という非人道的な禁止令を出したことがありました。ただそれは、会津戦争ではなく上野戦争の時のことです。

上野戦争では、軍師の大村益次郎が彰義隊をはじめとする旧幕府軍を追い詰めています。この時、幕府側には200名ほどの死者が出ていますが、この遺体を埋葬することは禁止され、放置されました。

大村益次郎の銅像

ただこれも、見せしめや報復のためという意味合いのものではなく、遺体を回収しに来る旧幕府側の支援者を捕まえるためだったと言われています。

最終的にこれらの遺体は、数日後には上野寛永寺の御用商人・三河屋幸三郎が、政府から許可を得て円通寺へ埋葬されています。

なぜ「放置説」が定説になったのか

こうして見ていくと、当時の新政府が、見せしめや報復などの理由から、敗れた敵兵の遺体をあえて野ざらしにしたことはなかったと言えそうです。上野戦争でそれを行ったのは戦略上の理由からですし、会津戦争では戦後にきちんと埋葬させています。

すると最後に残る疑問は、なぜ「会津戦争では新政府によって会津兵の遺体が放置された」という説が定説となったのか、ということです。

これについてははっきりしたことは分かりませんが、有力な説としては「最初に埋葬したタイミングと、後に改葬したタイミングが混同されたのではないか」というものがあります。

現在も会津若松市にある阿弥陀寺では、約1300人もの戊辰戦争の戦死者が埋葬されています。で、実は会津戦の戦死者もこちらに1869年2月に改葬されました。これが、1868年の10月頃に行われた最初の埋葬と混同されたということです。

会津若松市の阿弥陀寺

それで、会津戦争の戦死者の遺体は、戦争終結から1869年2月までずっと放置されていたと勘違いされたのかも知れません。

また、会津戦争における新政府軍の乱暴狼藉のイメージが強烈過ぎたため「彼らなら会津兵の遺体を見せしめで野ざらしにすることもやりかねない」」と思われた可能性もあります。

それからもう一つの理由として、会津兵の遺体が多すぎて、けっきょく埋葬が追い付かなかったという事情もありました。戦後、年を越してからも遺体捜索は続けられたのですが、それでも間に合わなかったというのが本当のところだったのです。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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