幕末の志士たちを震え上がらせた新選組!10人の組長たちの終焉を紹介【前編】 (3/4ページ)
会津では、新選組隊長として土方と別れて会津に残り戦い続けました。
斎藤一の終焉会津落城後は、警視局に警部補として就職。その後結婚し3人の子供にも恵まれます。近年斎藤一の晩年の写真が見つかりました。晩年になっても衰えない眼光の鋭さが印象的です。
斎藤 一(Wikipediaより)
胃潰瘍のため71歳でその生涯を閉じましたが、死の間際を悟り正座をして絶命したそうです。研究者の間では、子母澤寛の「新選組遺聞」の記述にある斎藤一口述の「夢禄」の発見が大いに待たれています。
松原忠司 四番隊組長
柔術師範として四番隊組長を務めた松原忠司。自身で創設した流派の北辰心要流柔術を操るほど柔術家として凄腕の持ち主で、新選組の前身である浪士組の時に入隊した古参の隊士です。性格は温厚で、池田屋事件や八月十八日の政変(尊王攘夷派の公家と長州藩を朝廷から追放したクーデター)での活躍が記録に残っています。
松原忠司の終焉松原忠司は、四番隊組長となって2カ月後に平隊士へ降格され4カ月後には死亡。享年30歳。一体何が起こったのでしょう?降格の理由もはっきりした死因もわかっていません。切腹未遂があったらしいですが、こちらも理由がはっきりしていないのです。事件がらみの不祥事とも殺害した浪士の妻を囲っていたのを土方に咎められたとも。
その後、切腹未遂の傷が悪化して死亡したと言われていますが、真相はわかっていません。