初期の明治新政府を運営したのは薩長ではなく公家だった!~ 公家による政治運営から内閣制度発足まで【前編】 (2/3ページ)

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そして明治14年、この三名の権力争いで大隈重信が脱落すると、18年には内閣制度が発足。さらに22年には大日本帝国憲法の発布となります。この流れの中心人物は、実は岩倉具視でした。

もう少し詳しく説明しましょう。

立憲民主制への道

憲法制定の方針がはっきりしたのは明治9年のことです。その後、明治12年のアメリカのグラント前大統領の助言によって、性急に憲政を敷こうとせず、ゆっくり慎重に事を進めることが決まりました。

しかし、ここで大隈重信が性急に国会を開設しようとする憲法草案を作ります。そして左大臣の有栖川宮に進言したのですが、その内容の過激さに驚いた有栖川宮は三条・岩倉に相談。さらに彼らから伊藤博文に話が伝わり、伊藤たちから大隈は攻撃を受けます。

ここで大隈は論争に敗けて失脚。憲法問題については岩倉具視が引き受けます。彼は各国の法制に通じていた井上毅の意見を取り入れた形で、憲法の起草を進めていきました。そんな彼をフォローしたのが伊藤博文でした。

旧五百円札に印刷された岩倉具視

このあたりの経緯を見ていくと、憲政の道筋を作った最大の功労者は岩倉具視であり、伊藤博文は彼をサポートする立場だったことが分かります。

岩倉具視の功績

また、華族制度を確立させたのも岩倉具視です。

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