なぜ中関白家と呼ぶ?「香炉峰の雪」の元ネタ、蔓延した疫病の実際…大河ドラマ「光る君へ」4月21日放送振り返り

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なぜ中関白家と呼ぶ?「香炉峰の雪」の元ネタ、蔓延した疫病の実際…大河ドラマ「光る君へ」4月21日放送振り返り

これから1年間、平安絵巻が見られるとワクワクしていたお正月から、気づけばもう全体の1/3が終わってしまったのですね(全48回放送の場合)。

華やかな宮中に対して庶民たちは疫病に苦しみ、悲田院で人々の看病に当たっていたまひろ(紫式部/吉高由里子)も感染してしまいました。

藤原道長(柄本佑)が必死に看病したため一命をとりとめたようですが、もし道長まで感染していたら、歴史が大きく変わったことでしょうね。

民の苦しみなど顧みもせず、どこまでも傲慢に権勢を極め続ける藤原道隆(井浦新)ら中関白家。怨みを買うほど星は輝きを増し、影が暗いほど華は光を放つもの。まさに「華の影」でした。

さて、第16回放送「華の影」、今週も気になるトピックを振り返っていきましょう!

なぜ中関白家と呼ぶの?

中関白・藤原道隆。菊池容斎『前賢故実』より

娘の藤原定子(高畑充希)を入内させたことで一条天皇(塩野瑛久)の寵愛を勝ち取り、権勢の絶頂を極める中関白家(なかのかんぱくけ)。なぜ彼らは中関白家と呼ばれたのでしょうか?

これは後世から見て、亡き藤原兼家(段田安則)と、後に最高権力者となる藤原道長の「中継ぎ」に過ぎないからという説が有力のようです。

※平安時代後期『中右記』『大鏡裏書』など。

中関白家は間もなく病死すると、息子の藤原伊周(三浦翔平)・藤原隆家(竜星涼)兄弟は叔父の道長と対立。

権力争いに敗れたばかりか花山院(本郷奏多)と悶着を起こして完全に失脚してしまいました(長徳の変)。

姉の定子に匿われて生命ばかりは助かったものの、都を追われてしまいます。

後ろ盾を失った定子は出家、人々の信望をなくして失意の内に崩御してしまったのでした。

名場面「香炉峰の雪」元ネタは?

歌川豊国「古今名婦傳」より、清少納言

定子から「香炉峰の雪はどうかしら?」と問われ、簾を上げて庭園の雪をご覧に入れた清少納言(ファーストサマーウイカ)。彼女の才知をいかんなく発揮した名場面の一つです。

実写にするとこんなもんかなと思わなくもありませんが、やはり生身の人間が演じてくれるのは感慨深く楽しめました。

このエピソードは彼女の随筆『枕草子』に残されており、多くの平安文学ファンに愛されています。

……雪いと高く降りたるを例ならず御格子まゐらせて、す櫃に火起して物語などして集まり侍ふに「少納言よ香爐峰の雪はいかならむ」と仰せられければ、御格子あげさせて、御簾高く卷き上げたれば、笑はせたまふ。……

※『枕草子』より

劇中でも言及されていた通り、このやりとりは白居易(白楽天)の漢詩「香炉峰下新たに山居(さんきょ)を卜(ぼく)し、草堂初めて成り、偶(たまたま)東壁に題す」が元ネタ。

「香炉峰に新居を建てた記念に、ふと思いついて詠む」といった意味になります。

日高睡足猶慵起
(あぁ、もう日が高いのに朝寝が気持ちよすぎてやめられない)
小閣重衾不怕寒
(狭いけれど落ち着く我が家、お布団を重ねているから寒くない)
遺愛寺鐘欹枕聽
(枕越しに聴こえるのは、遺愛寺の鐘。これだよ、これ)
香爐峰雪撥簾看
(簾を上げて、美しく積もった香炉峰の雪を眺める。素晴らしい!)
匡廬便是逃名地
(ここ匡盧では、出世とか名誉とかどうでもよくなる。負け惜しみじゃないよ!)
司馬仍爲送老官
(小さな官職にしがみつき、年老いてまであくせく働きたいとは思わないね)
心泰身寧是歸處
(何だかんだ理屈をこねても、結局のところ人生の楽しみって、心身の健康でしょ?)
故鄉何獨在長安
(長安の都ばっかりがいいところじゃない。そう思わないかい?)
※カッコ内は筆者によるかなり自由な意訳です。

まさに悠々自適の生活。多くの人が心の底で憧れる暮らしではないでしょうか。

許しがたい伊周の直衣~今週のF4

束帯姿の礼装(イメージ)

さて、今週のF4は雪遊びからの雪見酒でしたね(道長除く)。

藤原公任(町田啓太)「お前、道長じゃなかったのかよ?」

藤原行成(渡辺大知)が「道長だった」という発言へは深入りしないこととしまして、ここで気になるのは次の発言。

公任「しかし、帝の御前で伊周殿の直衣(のうし)は許し難い」

藤原斉信(金田哲)「それを帝がお許しになっているのだから仕方あるまい」

いやいや、帝がお許しになっても遠慮しろよ……と思ったのは、筆者だけではないでしょう。

というのも、直衣は平安貴族にとって普段着。「ただのころも」とも読めますが、真っ直ぐにのした布を使った衣だからとも言われます。

いくら寵愛と許可を得ているからと言って、畏れ多くも天皇陛下の午前でTシャツGパン姿では不敬というものです。

中関白家の増長ぶり、伊周の傲慢ぶりを表わすエピソードでした。

ちなみに、他の公任たちは束帯(そくたい)姿。お楽しみの場とはいえども、やはり君臣の序は守りたいものです。

この傲慢さが、後の凋落にスパイスを添えてくれるのでしょう。

既に生まれている藤原頼通

頼通が建立した平等院鳳凰堂。元は道長の別荘だった。

藤原彰子(小井圡菫玲)ともう一人、男の子を抱きかかえる源倫子(黒木華)。この子は道長の嫡男・藤原頼通と考えられます。

藤原頼通は正暦3年(992年)生まれ、のち成長して父の後を継ぎました。

関白となった頼通ですが、晩年の道長から公卿たちの面前で罵倒されるなど、あまりパッとしたところがありません。

(そうは言ってもエリート中のエリートなんですけどね)

藤原実資(秋山竜次)とは親しく交流し、有職故実を学びました。

そのため何かと道長に批判的な実資も、頼通には好意的だったそうです。

剛腕政治家であった道長よりも、人間力に優れていたのかも知れませんね。

道長の死後、別荘であった宇治殿を寺院としたのが平等院。10円玉のデザインにもなっている鳳凰堂の名刹です。

果たして頼通がどんな活躍を見せるのか、今後も楽しみですね!

ちなみに「高松殿」こと源明子(滝内公美)も正暦4年(993)年に道長次男の藤原頼宗(よりむね)を出産。

倫子が産んだ息子たちと争うことになりますがらはたして劇中では描かれるでしょうか。

相次ぐ放火

放火された弘徽殿(イメージ)

劇中でも言及されていたように、正暦5年(994年)2月に代理の後涼殿(こうりょうでん)・弘徽殿(こきでん)そして飛香舎(ひぎょうしゃ。藤壺)が放火により焼失しました。

果たしてこれは何者の仕業だったのでしょうか。

ハッキリしたことは書かれておらず、あまりにも身に覚えがあり過ぎたから、いちいち咎めなかったのかも知れませんね。

あるいは東三条院ではありませんが、大物過ぎて表立って事を構えたくない相手だった可能性も考えられます。

当時はあちこちで放火が横行しており、セキュリティ体制がどのようになっていたのか、興味はつきませんね。

蔓延する疫病

押し寄せる疫神たち(イメージ)

正暦5年(994年)1月から九州で痘瘡(天然痘)が蔓延。瞬く間に全国的な大流行となりました。

劇中では道隆が「高貴なものにはかからない」と嘯いていたものの、五位以上の中上級貴族が67名も死亡しています。

4月に入ると京都洛中に病人と死体があふれ返ったため、路上に仮設病棟を設けたり、薬王寺へ搬送したりなど対処しました。

しかし疫病の猛威は依然として収まらず、鳥や犬は死肉をたらふく食って丸々太り、骸骨が道路をふさいでしまう有様だったとか。

5月には死体で京都じゅうの水路が埋まってしまったため、検非違使は看督長(かどのおさ)らに命じて「汚穢」を掃除させました。

社会が混乱するとデマが飛び交うのは、いつの時代もお約束。「左京三条大路の南、油小路の西にある小井戸の水を飲めば疫病を免れる」と云々。

小井戸とは、水が少なく泥が深いため、普段は使わない井戸のこと。

噂を聞きつけた人々は、先を争って小井戸の泥水をすすり飲んだそうです。

そして6月16日。安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)が言及した通り、疫神が横行するとの妖言によってすべての家々が門戸を閉ざしました。

正暦5年(994年)4月から7月にかけて、京都の人口は半分になってしまったと言いますから恐ろしいものです。

第17回放送「うつろい」

さて、年は明けて長徳元年(995年・正暦6年)。疫病の猛威は依然として収まらず、高貴な人々も次々に倒れていきました。

大納言・藤原朝光:3月20日没(45歳)
大納言・藤原済時:4月23日没(55歳)
右大臣・藤原道兼:5月8日没(35歳)
左大臣・源重信:5月8日没(74歳)
中納言・源保光:5月9日没(72歳)
中納言・源伊陟:5月22日没(58歳)
大納言・藤原道頼:6月11日没(25歳)……道隆の庶長子

そして関白の藤原道隆も4月10日に病死してしまうのです(疫病とは無関係の模様)。

政府の高官が相次いで世を去ったことから道長に摂政の座が回ってくるのですが……果たしてそこまでやるでしょうか。

来週も急展開が予想されるので、眼が離せませんね!

トップ画像:「光る君へ」公式サイトより

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