古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った幕末の志士や戦国武将たち【前編】 (3/3ページ)
豊臣秀次像(Wikipediaより)
1595年。明確な理由は明らかになっていないが、秀次は秀吉に対する謀反の疑いによって現在の和歌山県高野山に存在した青厳寺で切腹した。
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悪行三昧の逸話が残る豊臣秀次。”殺生関白”という不名誉なレッテルは本当だったのか?秀吉は秀次縁故の人物達もことごとく罰することで血筋の根絶を図る。秀次の妻子や妾、乳母、侍女に至るまで40名近くを三条河原で処刑。処刑の際には秀次の首が晒されたという。遺体は秀次の首と共に河原に埋められ首塚となった。
江戸期に入ると首塚は供養のために寺院が建立され、瑞泉寺として現在に至っている。
次回の【後編】に続きます
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