なぜ歯向かったのにお咎めなし?幕末、戊辰戦争で戦った旧幕派の藩主たちがほとんど処罰されなかった理由
戦後の重罰
幕末~明治期の戊辰戦争では、新政府軍と旧幕府軍が戦火を交えましたが、その中で旧幕軍の重要拠点だった会津で起きたのが会津戦争です。
この戦争は、新兵器などを駆使する新政府軍の勝利に終わりましたが、その後、旧幕派の人々はどうなったのでしょうか?
通説としては、旧幕派は厳罰に処されたと言われています。会津藩と同盟を結んで新政府軍と衝突した諸藩において、そのトップの人々はことごとく処刑されたというのが、一般的な考え方だったのです。
長らくそのように考えられていたのには理由があります。実際、戦争の終結後に新政府は東北諸藩に対して処罰を下しているのです。その主なものを一覧として挙げると以下の通りです。
・仙台藩…重臣の但木土佐と坂英力が死罪
・米沢藩…加藤の色部長門が御家断絶(ただし長門本人は戦死している)
・会津藩…家老の萱野権兵衛ほか、約20人の重臣が死罪あるいは重罰(ただし生死を問わず)
・山形藩…近江転封
・福島藩…三河重原転封
・請西藩…約1万石から300万石に改易
このように、新政府軍が旧幕派に対して重罰を加えたのは確かなのですが、しかし藩主については皆、微罪で済みました。
「微罪」で済んだ藩主たち例えば、当時の仙台藩主だった伊達慶邦は謹慎処分で、そして米沢藩主の上杉斉憲は隠居で済まされています。
また、幕末期の会津藩の中心的存在でもあった松平容保も、最初は終身謹慎と封土没収となりましたが、1869年には再興を許されて華族となり、なんと下北半島の斗南藩3万石を与えられました。
これはほんの一例で、総じて、会津戦争で新政府軍に楯突いた藩で藩主が死罪となったケースは存在していません。彼らは皆、微罪で済んだのです。これは何故でしょうか。
実は、もともと新政府軍は藩主を処刑することは考えていなかったのです。
戦争終結後、新政府軍は明治天皇の詔書に基づいて東北の各藩を処罰したわけですが、この詔書の中でも「容保の死一等を宥して首謀の者を誅し…」と記されていました。
新政府軍は、東北諸藩が新政府軍に楯突いたのは各藩の藩主の側近たちによる謀だと考えていたのです。奥羽越列藩同盟の首謀者は、同盟を結んだ諸藩の藩主ではない、ということですね。
こうしたことから、藩主は処罰されず、その側近たちが重罰に処されたのです。
ほとんどが「お咎めなし」だったワケまた、処罰の差も藩によって大きく異なっていました。新政府軍と最後まで戦った庄内藩(今の山形県の沿岸地域)は移封処分となるはずでしたが、30万両の献金と70万両の賠償金に合意したことで旧領の大部分が安堵されています。
さらに、盛岡藩は仙台領白石への転封が命じられていましたが、領民の一揆によって旧領復帰が許されています。
それ以外の諸藩もほとんどが一定の領土を保証されていますし、前述の庄内藩のように懇願や献金によって転封を免れた事例も複数確認されています。
このように見ていくと、新政府軍による処罰は「お咎めなし」のようなもので、ある意味で「甘い」とも言えるでしょう。なぜ明治新政府はここまで甘い処分を下したのでしょうか?
その理由として考えられるのは、資金の問題です。
もともと新政府軍は資金不足に悩んでいたため、処罰の緩和と引き換えに金を受け取ったほうが得策だと判断したとも考えられます。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan