江戸時代、極めて非人道的な政策で「島原の乱」を引き起こした愚かで無能な藩主・松倉親子の愚行【前編】 (3/4ページ)
領内整備を推し進め城下町を発展させ、商業都市として栄えさせたのです。重政のための祭りが開かれる程に名君の片鱗をのぞかせていました。
松倉重政の暗君への変貌「大坂夏の陣」で松倉重政は戦功をあげ、キリシタン大名の有馬晴信の領地であった島原藩(この頃は藩の名称は肥前日野江藩)4万3千石に移封となります。この島原藩への移封が、重政を暗君へと変貌させます。
領民からの過酷な搾取重政は、領民に対して過酷な搾取を始めます。領民の生活を守るべき藩主とは到底思えない、過酷な搾取の原因としては次のようなものがあります。
元々あった原城と日野江城を壊し、新たに島原城を再建築(1国1城制に従うため)。 4万3千石にもかかわらず、10万石の藩主に匹敵するような城を築城。 検地で領内の石高を実績の倍近くに見積。 幕府への忠誠アピールで、分不相応な江戸城改築の公儀普請役(こうぎふしんやく)を請負。 幕府へのアピールとして、キリシタンの根拠地ルソン攻略のための遠征準備費用の捻出。自らの見栄や幕府へのアピールのために領民から異常なまでの搾取を続け、領民の生活は困窮します。また、年貢を納められない農民に対して残忍な拷問や処刑が行われていました。
キリシタンへの厳しい弾圧当初はキリシタンを貿易のため黙認していましたが、江戸幕府のキリシタン政策に従い弾圧を開始します。そして将軍徳川家光に弾圧の甘さを指摘されると、徹底的な弾圧へと豹変したのです。
キリシタンに対し「吉利支丹」という文字を顔に焼印。