紫式部、ホームシックから結婚を決意。都から離れての雪国暮らしの中で詠まれた数々の歌「光る君へ」
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父・為時の任官
大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部ですが、彼女は生涯で一度だけ「田舎暮らし」を体験しています。
それは、父の為時が、越前守として任官した時のことです。
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もともと為時は小国である淡路国(兵庫県淡路島・沼島)に任ぜられていたのですが、それに不満を抱いた為時が、朝廷へ上申書を提出。最も得意とする漢文で、当時の一条天皇への思いを込めた詩を書き送りました。
そしてそれが、時の最高権力者・藤原道長の目に止まり、その詩の美しさに感動して、越前守として為時を採用することにしたのです(これは一条天皇本人だったという説も)。
ちなみに、もともと越前守には源国盛が任ぜられていましたが、それは変更となったわけです。国盛は突然配置換えをさせられたショックもあり、そのまま没してしまいました。
この時のエピソードは『今昔物語集』『今鏡』『古事記談』などから確認できます。
そして為時は、長徳2(996)年に紫式部を連れて越前に赴任しました。
この時、式部は27歳。当時の常識としては「行き遅れ」と呼ばれても仕方のない年齢です。為時が、既に婚期が遅れている彼女をわざわざ遠国に同行させたのは、彼女の傷心を癒すためだったと推測する人もいます。
当時の式部は、「方違え」を口実にやってきた朝顔の男への失恋で傷ついていました。その彼女を、ひとまず京から離す目的があったということです。
心細さが詠ませた歌たちさて長徳2(996)年、紫式部は父とともに越前国へ旅立ちました。
この当時、京都から越前国の国府が置かれた武生(福井県越前市)までの行程は、丸々4日かかったといいます。
『紫式部集』には、その道中で式部が詠んだと思われる和歌が収められています。
琵琶湖の湖岸、現在の滋賀県高島市と比定される「三尾崎(みおがさき)」では、
三尾の海に 網引く民の てまもなく 立居につけて 都恋しも
(三尾の海で、忙しそうに網を引いている漁民の姿を見て、都が恋しくてならない)
琵琶湖を北に進む船上で、空が曇って稲妻が光った際には、
かき曇り 夕立つ波の 荒ければ 浮きたる舟ぞ しづ心なき
(空が曇り、夕立になって波が荒くなったので、浮いている船も心も揺れる)
現在の滋賀県と福井県の境にある難所「塩津山」 (峠)で、荷物運びの人夫が「やはり厳しい道だな」と言うのを聞いて、
知りぬらむ 往き来にならす 塩津山 世にふる道は からきものぞと
(知っているでしょう。行き来に慣れた塩津山を越えるのが辛いように、生きていくことは辛いということを)
こうした和歌から感じられるのは、新天地へ向かう前向きな姿勢ではなく、遠国へ赴く心細さです。
ホームシックから一大決心へまた、武生に到着しても、それは変わりませんでした。むしろ、降り積もる雪が、彼女の心を閉ざしてしまったのかもしれません。
その年の冬、「暦に初雪降る」と書かれていた日、すぐ近くの日野岳という山に雪が深く降り積もりました。そこで式部は、次のような歌を詠みます。
ここにかく日野の杉むら 埋づむ雪 小塩の松に今日やまがへる
(ここ越前では、日野岳の杉林を埋めるほどの雪が降り積もっている。都の小塩山の松にも、今日は雪が降っていることでしょう)
目の前にある日野岳に降り積もる雪を眺めながら、式部は都に思いを馳せていたのです。
さらに、武生が大雪に見舞われた日、かいた雪を積み上げてできた雪山に人々が登り、沈みがちな式部を元気づけようと「さあ、ここへ来て雪を見てください」と声をかけたのですが、彼女は、
ふるさとに 帰る山路のそれならば 心や行くと 雪もみてまし
(故郷に帰る 「鹿蒜山(かひるやま)」の雪ならば、気も晴れるかと見るのですが)
と詠みました。
武生から都へ帰る途上にあった「鹿蒜山」(福井県南越前町)と「帰る山」をかけつつ、都に戻りたいという思いを表現したのです。
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そんな、ホームシックともいえる気持ちが彼女を後押ししたのかもしれません。式部は一生に関わる一大決心をします。 武生に住む前から式部へのアプローチを続けてきた藤原宣孝との結婚です。
紫式部、結婚に踏み切る!ふられてもラブレターを送り続けた藤原宣孝の一途さ…「光る君へ」でどう描かれる?藤原宣孝の年齢はわかっていませんが、親兄弟の生年などから、天暦4(950)年頃に生まれたと推定されています。 式部とは、少なくとも20~28歳も歳の離れた歳の差婚だったと考えられています。
参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)
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