清少納言・和泉式部・赤染衛門…紫式部は同時代の女性たちをどう評価したのか?【前編】

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清少納言・和泉式部・赤染衛門…紫式部は同時代の女性たちをどう評価したのか?【前編】

清少納言という女性

大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部ですが、彼女のほかにも、当時の女性で後世に名を残した人は多くいます。式部は、そんな同時代の女性たちをどう評価したのでしょうか。

まず有名なのは、紫式部のライバルとされる清少納言に対する批判です。

清少納言(菊池容斎画 明治時代・Wikipediaより)

清少納言の父は歌人の清原元輔。康保3(966)年頃に生まれ、橘則光の妻となって数人の子を産んでから離別し、正暦4(993)年頃、一条天皇の中宮・定子の女房となりました。

藤原北家の長者として権勢を誇った定子の父・藤原道隆の全盛期には、恵まれた環境で文才を発揮しましたが、 長徳元(995)年の道隆の死によって環境が暗転します。

政権が道長に移り、彰子の入内によって不遇をかこいました。しかし、その翌年頃から『枕草子』の執筆を始め、長保3 (1001)年までにほぼ書き上げたと考えられています。

歴史上の二人の関係

大河ドラマ『光る君へ』ではファーストサマーウイカの演技が冴え、紫式部とも共演していますが、実際には長保2(1000)年に定子が没し、主を失った清少納言は宮廷を去っています。

史実としては、紫式部が出仕したのはその後の寛弘2(1005)年頃なので、二人はすれ違っており実際には面識はなかったと思われます。

紫式部像

しかし『紫式部日記』には、清少納言に対する痛烈な批判が綴られています。

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。
(清少納言こそ、得意顔で偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって漢字を書き散らしていますが、よく見るとたいへんに未熟な部分が多くあります)

かく、人に異ならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。
(あのように他の人とは違うのだとばかり思っている人は、必ず見劣りし、行く末は悪いことばかりになるはずです。 風流に染まり切った人は、風流にほど遠い折にも風流を気取り、的外れなつまらない結果を招くものです。誠実でなくなってしまった人の果ては、どうして良いものになるでしょうか)

紫式部が、なぜこれほどまでに清少納言に対する辛辣な批判を日記に残したのか、その理由ははっきりしていません。

公平さを欠く評価

【後編】で解説しますが、紫式部は同時代を生きた和泉式部赤染衛門についても評価しています。

そこでは、彼女たちの素行はともかくとして文才があることはしっかり認めるという視点の公平さが特徴的です。

そんな式部でも、こと清少納言については、その文才すらも論外としたくなるような気持ちがあったのでしょう。

清少納言土佐光起画『清少納言図』(Wikipediaより)

実際、『枕草子』の文体や、数々の記録から知られる清少納言の男女関係からも、彼女の気丈で強気な性格は明らかです。敵を作りやすいタイプだったことは容易に想像がつきますね。

【後編】では、和泉式部赤染衛門に対する紫式部の評価を紹介します。

参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)

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