実際、藤原道長は夜に紫式部のもとを訪れていた!?『紫式部日記』から読み取る二人の関係【光る君へ】
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二人の関係は?
大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部。その主要な登場人物の一人である藤原道長は、一時期は朝廷内で最高権力者にまで上り詰めた人物です。
そんな道長と、紫式部の関係について今回は見ていきましょう。
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藤原道長は、兼家を継いで関白となった兄の道隆と道兼が相次いで病死した後、道隆の子・伊周との政争に勝利。その結果、右大臣の地位を獲得して氏長者となりました。
そして長保元(999)年には娘の彰子を一条天皇に入内させ、紫式部をその女房(教育係)として招いています。
紫式部が仕えた一条天皇の中宮、12歳で天皇に入内した平安時代のプリンセス 藤原彰子大河ドラマ『光る君へ』ではそんな道長と紫式部の関係から目が離せませんが、二人は実際のところどのような間柄だったのでしょうか。
それについてはっきり答えが書かれている史料は今のところ存在しません。
一応、紫式部は藤原道長の愛人だったという俗説があります。これは南北朝時代に成立した系図集『尊卑分脈』の、紫式部の注記に「御堂関白道長妾云々」と書かれていたことが原因ですが、これが本当かどうかは不明です。
それよりも実は、『紫式部日記』に、もっと具体的で艶めいた、二人の関係について想像力を刺激される興味深いエピソードがあります。
夜に訪れた「水鶏」とは…道長は三人の娘 (彰子の妹)を次々と入内させ、三代にわたる外戚となって権力を盤石なものとしていきました。そして、そんな中で紫式部の『源氏物語』執筆を全面的にサポートしました。いわば、小説家としての式部のパトロンです。
『源氏物語』が結んだ紫式部と藤原道長の絆…未亡人の紫式部がパトロンを得て世界的古典を書き始めるまでで、『紫式部日記』には次のようなエピソードが収められています。
ある日、中宮の前に置かれていた『源氏物語』を見た道長が、そばにいた紫式部に語りかけます。
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すきものと 名にし立てれば 観る人の 折らですぐるは あらじと思ふ
(『源氏物語』のような恋愛物を書いたあなたは「好き者」と評判になっています。あなたを口説かずに素通りする男などいないのでしょうね)
捉え方によっては、大変失礼な質問ですね。これに対して紫式部は、
人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ
(誰にも靡(なび)いたことのない私を、いったい誰が「好き者」などと言うのでしょう。心外なことです)
と返しました。これだけでも、道長がどんな目線で紫式部のことを見ていたのか、また紫式部が男たちからどのように見られていたのかが想像できて興味深いですが、さらに無視できないのは、この直後に続くエピソードです。
渡殿に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、恐ろしさに音もせで明かしたるつとめて、
(渡殿〈渡り廊下にある局〉で寝た夜、誰か戸を叩く人がいた。その物音を聞きながらも、恐ろしいので返事もせずに夜を明かした。)
夜もすがら 水鶏(くひな)よりけに なくなくぞ 真木の戸口に たたきわびつる
(一晩中、水鶏にも増して、泣く泣く真木の戸口を叩きあぐねていました)
ただならじ とばかり叩く 水鶏ゆゑ あけてはいかに 悔しからまし
(ただ事ではない戸の叩き方でしたが、ほんの出来心でしょう。私が戸を開けていたら、どんなに後悔することになっていたことでしょう)
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前半部分で紫式部のことを「すきもの」と呼んだ人物は間違いなく藤原道長なのですが、それに続いて、夜に何者かが戸を叩いて紫式部のもとを訪れたというのです。
その正体が誰だったのか、『紫式部日記』には書かれていません。しかし「すきもの」のエピソードに連続して書かれている以上、紫式部もその連続性を意識して『日記』をつけたと考えるのが自然でしょう。
ただ、紫式部自身も戸を叩いた人物の正体を確認した形跡はありませんし、どこからどこまでを「史実」と考えるかは微妙なところです。何もかも証拠がないので、何事かを断言することはできません。
ただ、紫式部がこのような書き方をしている以上、二人の間に少なくともなんらかの艶めいた「意識」程度のものはあったかも知れません。
学者による解釈は?ちなみにこの記述については、研究者の間でも解釈が分かれています。
沢田正子は『紫式部』の中で、この訪問者の正体は藤原道長であるという前提に立ち、夜中に突然訪ねてきた時の権力者に対して、凛として立ち向かった紫式部の精神力の逞しさや人間像の深みを見出しています。
さらに、悪い冗談を言いながらも、彼女の才能を温かく守り育てていった道長の大きな人となりや存在感が認識される、とも。
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一方今井源衛は、左大臣ともあろう者が根回しも前触れもなしに、いきなり夏の夜中にのこのこと女房の局の戸を叩きに出かけて、開けてももらえずすごすごと引き揚げるなどありえない、と述べています。
そんなこともあって、戸を叩いた人物が道長であるわけがないと断言しています。
ちなみに今井氏は、前述の「紫式部=藤原道長の愛人説」も、根拠に乏しいとして完全に否定しています。
個人的には、ただ『紫式部日記』に書かれているだけで、他の史料によって補強も裏付けもできないようなエピソードを本当に史実として考えていいのかどうか、そもそもその真偽について検証してみるべきだと思うのですが。
もしかすると、紫式部の夢だったのかも知れませんしね。
参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan