江戸時代のペリー来航時に通訳として活躍!日本の英語研究の基礎を築いた「堀達之助」とは?

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江戸時代のペリー来航時に通訳として活躍!日本の英語研究の基礎を築いた「堀達之助」とは?

日本の歴史において、その後の社会を大きく変えることになる転換点となった出来事はいくつもあります。しかし、そのなかでもとりわけ有名なのが「ペリー来航」ではないでしょうか。

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鎖国下にあった日本が開港し、明治維新へとつながっていく。そんなペリー来航ですが、今回はそこでの「コミュニケーション」に注目してみたいと思います。

違う言語を話すわけですから、当然そこには通訳が必要。今回の記事では、ペリー来航のときの通訳を務めた、堀達之助(ほりたつのすけ)という人物に迫ります。

堀達之助(Wikipediaより)

堀達之助とは?オランダ通詞の父のもとに誕生

堀達之助(ほりたつのすけ)は、1823年(文政6年)長崎県に生まれました。父はオランダ通詞・中山作三郎武徳。のちに、同じくオランダ通詞の堀政信の養子となります。

長崎で、オランダ通詞の子どもとして生まれる……その後の彼の人生につながりが見えてきそうですよね。ちなみに、堀政信の娘(房:ふさ)と結婚し、堀家を継いでいます。

1845年(弘化2年)、彼は小通詞末席となります。1848年(嘉永元年)には、アメリカの捕鯨船員のマクドナルドから、日本で初めて英語を学んだと言われています。

黒船来航時に「私はオランダ語が話せる!」と叫んだ!?

その後の日本社会を大きく変えることになる1853年(嘉永6年)の黒船来航。ペリーが乗るサスケハナ号に向かって、堀達之助は

「I can speak Dutch!”(私はオランダ語を話すことができる)」

と叫んだとも言われています。

浦賀奉行所与力の中島三郎助がサスケハナ号を訪れた際に、堀も通訳として同行。2人で交渉を担当しました。

このとき、通訳の腕がアメリカ側にも認められ、翌年の日米和親条約の締結の際にも、和解(和訳)を担当しました。

まさかの入牢!?

日本にとってとても重要な役割を担っていた堀ですが、1855年(安政5年)に、ドイツ通商要求書簡独断没収の罪でまさかの入牢。しかし、これは冤罪とも言われています。

獄中では、吉田松陰と知り合い、その後も交流を続けました。翌年には赦免され、幕府の対訳辞書編集主任になりました。外国の新聞を翻訳したり、日本初となる本格的な英和辞書である『英和対訳袖珍辞書』を刊行したりしています。

日本における英語研究の基礎を築いた人物として、今でも彼の功績は大きくたたえられています。

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いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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