何度も家臣に裏切られつづけた悲惨な戦国大名「龍造寺隆信」の残念すぎる最期【前編】

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何度も家臣に裏切られつづけた悲惨な戦国大名「龍造寺隆信」の残念すぎる最期【前編】

龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は、戦国時代の九州を生きた戦国大名です。無名の生まれでありながら、九州で3本の指に入る巨大勢力を築いています。

彼は大名として類稀なる才能を持ち合わせていましたが、人望に恵まれることがなく壮絶な人生を送りました。

前編となる今回は、龍造寺隆信の人格を形成した事件や裏切りなど、波乱に満ちた少年期〜当主までを紹介ます。

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天才の幼少期

佐賀県重要文化財の龍造寺隆信像(Wikipediaより)

1529年、肥前国(現在の佐賀県と長崎県)で誕生したのが「龍造寺隆信」です。彼が産まれた家は、北部九州地方の御家人(守護大名)を務めた「少弐氏」に仕える龍造寺家の分家でした。

隆信は7歳の時に出家し、寺の僧侶として働くようになります。寺で才能を磨いた隆信は、大人顔負けの知識量や筋力で他者を圧倒。住職も隆信の才能に驚き、大物になることを直感したほどだといいます。

一族滅亡の危機!謀略事件と家督相続

隆信の出家から9年後の1545年に事件が起きます。主君の少弐氏に謀反を疑われ、隆信の父と祖父が殺害されたのです。これは龍造寺家に恨みを持つ「馬場頼周」の謀略でした。

この謀略により、一族の大半を亡った龍造寺家は滅亡の危機にまで陥ります。

出家していた隆信は、曾祖父・家兼に連れられて筑後国(現在の福岡県南部)へと亡命。
その後、周囲の協力を得た家兼は馬場頼周を討って、龍造寺家の再興に尽力しました。

しかし、まもなくして家兼は病に犯され、享年93歳でこの世を去ります。

家兼の遺言に従い隆信は僧侶を辞職(還俗)して、龍造寺分家の家督を相続。翌年には龍造寺本家の家督も相続しました。

隆信の性格を変貌させた家臣の裏切り…

家督を継いだ隆信は肥前国統一を掲げて勢力拡大を図りますが、分家出身の身分であることや現実的ではない野心に反発するものも続出。隆信は中国地方で猛威を振るう大内義隆と同盟を結ぶことで、反発勢力を黙らせることに成功しました。

しかし、隆信が龍造寺家当主の座に就いてから3年後、大内義隆が家臣に裏切られて命を落とします。さらに後ろ盾を失った隆信も、家臣・土橋栄益らの裏切りに遭い肥前国を追放されてしまうのです。

野心家の隆信は筑後国で協力者を募って肥前国へ無事帰還。そして、土橋栄益ら反発勢力を武力で制圧したのです。

このときに家臣の裏切りを体験した隆信は、冷酷で疑り深く人を信じない性格へと変貌しました。

後編では、家臣に裏切られた龍造寺隆信の下剋上劇と不名誉な最期を紹介します。

人を信じなくなった龍造寺隆信は、どのような人生を歩むのでしょうか。

次回の【後編】に続きます。

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