三島由紀夫の高祖父!江戸幕府に忠義を尽くした幕臣「永井尚志」の生涯に迫る

みなさんは、永井尚志(ながいなおゆき)という人物の名前を聞いたことがありますか?
日本史を専攻していた方であればご存じかもしれませんが、あまり聞き馴染みのないという方も多いかもしれません。
江戸幕府に忠義を尽くした幕臣であり、昭和の名作家・三島由紀夫の高祖父(こうそふ:祖父母の祖父)にあたる人物でもあります。
今回の記事では、そんな永井尚志の生涯に迫ってみたいと思います。
三河国に生まれ、25歳で永井家の養子に
永井尚志(ながいなおゆき)は、文化13年(1816年)三河国奥殿藩で5代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれました。尚志は父の晩年の子であり、すでに家督は養子に譲っていたため、彼が藩を継ぐことはありませんでした。
天保11年(1840年)25歳のとき、2000石の旗本・永井尚徳の養子になります。藩主の子でありながら、旗本の養子になるという異例の経歴を持っています。
学問にはげみ、どんどん有能な人物に永井尚志は幕府直轄の教育機関である昌平坂学問所で勉学に励みます。朱子学および西洋への知識をつけ、36歳のころには、姉妹校にあたる甲府徽典館の学頭(校長)にもなっています。
1853年には、有能な人物が登用される目付になりました。その後も、長崎海軍伝習所の所長や勘定奉行、外国奉行など重要な役職を歴任していきます。
幕末期、時代にもまれた永井幕末期になり、永井尚志の人生もまた大きく揺れ動いていきます。
将軍の跡継ぎ問題で一橋慶喜を指示していたため、井伊直弼によって当時の役職・軍艦奉行を罷免させられます。井伊の暗殺後京都町奉行として復帰し、京都の守護にあたりました。1867年の大政奉還のあとには、若年寄に出世。
その後の戊辰戦争においては、永井は榎本武揚に合流し蝦夷地へ拠点を移します。函館戦争で捉えられた彼は1871年に保釈されます。
処刑されるはずだった彼が放免されたのは、新政府軍の黒田清隆が幹部を説得したからだと言われています。
1872年以降、政府に出仕し、さまざまな官職を歴任。1891年7月1日に76歳で死去しました。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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