戦国時代の容赦なき粛清…黒田官兵衛・長政親子に一族と家臣もろとも謀殺された武将・城井鎮房の悲劇 (2/5ページ)
天文6年(1536)、城井長房の子として鎮房は誕生しました。そして、誕生から十数年後に起きた下野宇都宮氏の内紛が勃発。
父の長房は熱心に介入したことによって、早い段階で領国の管理を任されていました。
そのような状況の中で大内義隆から大友宗麟に従属し、大友氏の勢力が衰えると島津義久に鞍替えし、上手く生き延びました。
しかし、天正14年(1586)に豊臣秀吉による九州征伐が勃発すると、秀吉のもとで戦います。にも関わらず、鎮房本人は出陣しなかったことで、秀吉から不信感を買いました。
それが要因かは不明ですが、九州征伐後に鎮房は伊予国への移封と藤原定家が残した小倉色紙の引き渡しを命じられました。
本来であれば、家を守るために秀吉の要求を受け入れるかと思ってしまいますが、鎮房は先祖伝来の土地と大切な家宝を守るために要求を拒否します。
この事態を重く見た毛利勝信によって、鎮房は移封後に秀吉に本領安堵の嘆願をする形で要求を受け入れました。
