実は双子だった徳川家康の次男・秀康!存在を隠された双子の弟・永見貞愛の数奇な人生

医療が発達し、現代では双子の出生率が増えたといいます。非常に喜ばしいことですが、戦国時代では双子は忌み嫌われる対象でした。
その最たる例が徳川家康で、次男の結城秀康は双子の兄弟の兄だったといわれています。
肝心の弟は永見貞愛(ながみ-さだちか)と呼ばれる人物ですが、表舞台には出ることがなかったのでどのような人生を送ったか気になる方もいるかと思います。
そこで今回は永見貞愛の数奇な人生をご紹介します。
※あわせて読みたい!
徳川家康に嫌われていた?他家を養子として転々とした家康の次男・結城秀康の複雑な人生 産まれてすぐ永見家へ
当時、双子を生むことは犬畜生と同じということで、忌み嫌われていました。
犬畜生とは犬などの動物を指す言葉で、一度の妊娠で2人を生むことは動物と同じと捉えられていました。
そのため、お万の方のもとで生まれた貞愛は、産まれてすぐに亡くなったことにし、お万の方の実家である永見家に養子として出されています。
貞愛と同時に産まれた兄の結城秀康は、家康の正室・築山殿がお万の方を家康の側室として認める前に産まれてしまったことで、重臣の本多重次の計らいで誕生しました。
神主として生きた
永見家の元で育った貞愛は、18歳になる天正19年に知立神社(ちりゅうじんじゃ)の神主を伯父の永見貞親から譲り受け、戦国武将とは程遠い神主として生きました。
ちなみに永見氏は、永見毛神が創始した氏族です。
知立神社との関わりは、白鳳2年(674)に天武天皇が永見貞連を知立神社の神主にしたことが始まりの由緒正しい一族であることがわかります。
貞愛は貞親の娘を妻にし、子の永見貞安に恵まれた何不自由ない生活を送るも、次第に弱っていき、亡くなる前には足が不自由に。そして、慶長9年(1605)11月16日に31歳の若さで亡くなりました。
兄弟間の仲は良好で、慶長2年に蔵米2千俵を送っていたり、秀康が越前国入国の際に弓十張を奉納していたりと常日頃から気にかけていたことがわかります。
その秀康も貞愛の死から3年後の慶長12年(1608)に34歳の若さで病死しています。
鎌倉時代にも双子の兄弟がいた!?
冒頭で記載した通り、忌み嫌われていた双子で生まれてしまったら、1人しか産んでないように片方を間引きしたり、仏門に送ったりと存在が抹消されていました。
そのため、『永見氏家譜』や『柳営婦女伝係』といった史料で記録に残っている貞愛のケースは非常に珍しいことがうかがえます。
しかしながら、貞愛の他に双子で産まれたとされる人物がいました。それは平安時代から鎌倉時代に活躍した甲斐武田氏の祖である武田信義です。
信義は兄の逸見光長(へんみ-みつなが)と同じく大永3年(1128)8月15日に産まれたといわれています。
秀康と貞愛兄弟と違い、光長は木曽義仲討伐に信義は鉢田の戦いや富士川の戦いや参加し、兄弟それぞれ武将として活躍していました。
そのことから、鎌倉時代は戦国時代と比べて双子に寛容だったのではないかとうかがえます。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan