あの坂本龍馬を捕殺!?約400名で組織された幕末の治安維持部隊「京都見廻組」の実態【前編】 (2/2ページ)
京都見廻組同様、周辺地域の治安維持活動を目的としていた新撰組だが、主に歓楽街などの民間地域を管轄し、お互いが協力し合うことは無かったという。
京都見廻組の詰所の側にある「二条城(にじょうじょう)」
両隊が協力して戦うことになるのは、旧幕府軍として参戦することになる戊辰戦争勃発後の鳥羽・伏見の戦いとなる。この頃の京都見廻組は隊名を改称し遊撃隊として参加した。
組の中心人物京都見廻組には組織の中心として活動した隊士が存在する。
佐々木只三郎1833年、会津藩士の家に生まれる。幼い頃から剣や槍といった武芸に精通し、幕府の武芸訓練機関である講武所の槍術師範を努めた。
京都見廻組が新設されると、管理役の一人として与頭勤方に抜擢。禁門の変が初陣であったという。1865年には与頭に昇格。与頭は見廻組の最高位であり、実務の実権は只三郎が取り仕切った。
1867年に京都の近江屋で発生した、土佐脱藩浪士・坂本龍馬暗殺事件では実行犯として加わったとされる。(【後編】に記述)
今井信郎1841年生まれ。幕臣で剣術家であった榊原健吉道場を経て講武所の師範代を努めた。京都見廻組には1867年に入隊。剣術の腕前は隊の中でも随一であり、腕利きとして名を広く知られたという。
1867年の近江屋事件には佐々木只三郎と共に関わっていたとされ、後に事件の詳細を語っている。(【後編】に記述)
次回の【後編】では、近江屋事件に関する詳細と、京都見廻組のその後をご紹介する。
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