脚色と誤解の数々…実は石田三成と徳川家康は険悪な仲ではなかった!二人の関係の誤解を解く【前編】 (2/3ページ)
富山県高岡市にある前田利長像。利長は家康暗殺を計画した疑惑がもたれた。この疑惑は謀略だったともいわれる
また家康の方も、三成が豊臣恩顧の武将との諍いで謹慎すると、彼の息子である重家を登用して豊臣政権内のバランスをとっています。
両者とも事を荒立てたくなかっただけかも知れません。しかし感情的に対立していたのなら、わざわざ互いを庇うことはしないでしょう。
ターゲットは三成だけではなかったそもそも家康が企んでいたのは、豊臣政権の実力者たちを排除することであり、個人攻撃ではありませんでした。
石田三成は豊臣政権の政務を担う奉行衆の筆頭格であり、個人的な感情の有無にかかわらず家康が排除を目論むのは当然の成り行きでしょう。
実際、三成失脚後は前田利長を暗殺未遂疑惑で、さらに宇喜多秀家も家中の騒動を原因に排斥しています。奉行衆だった浅野長政は謹慎させられ、さらには大老上杉家にも難癖をつけるなど、家康は逆らう可能性のある有力者を次々と排除していきました。